創立100周年記念事業
(2019年度)

100年の想いを未来へ 池新田高等学校

1919年(大正8年)「笠南農業補習学校」設立。
1928年(昭和3年)に当時28歳だった丸尾謙二先生が「池新田村外十ヶ村組合立池新田農学校」を創立し初代校長に就任しました。
以来同窓生は20,000人余を輩出してきました。

そして、2019年に創立100周年を迎えました。
100周年を記念するにあたり、学校・同窓会を中心に実行委員会を立ち上げました。

100年の歴史をひも解き、池新田高校の存在感や価値を在校生や同窓生のみならず、社会や地域へ伝えることで、未来へレガシー(資産)を残す記念事業を実施しました。

~ 創立100周年記念事業 ~
主な事業と取り組み

主な事業

  • 記念式典・記念講演(2019年11月13日(水))
  • 普通教室のエアコン設置
  • 100周年記念誌発行
  • 各種記念イベント 他
  • 静岡県立池新田高等学校 卒業生&在校生「交流美術展」(2019年7月11日(木)~ 7月21日(日))
2019年 7月11日(木)~ 7月21日(日)
静岡県立池新田高等学校 卒業生&在校生「交流美術展」
静岡県立池新田高等学校 卒業生&在校生「交流美術展」(2019年7月11日(木)~ 7月21日(日))
池新田高等学校 交流美術展 出品作品一覧(281KB)

池高100人リレーメッセージ
~ 卒業生の声 ~

小山田 弘子

https://ikeshinden-ob.net/anniversary/#article_20190802100347

卒業生の声

卒業して既に60数年も経ってしまったが「池高」は我が心のオアシス。 3年間の日々は、私の生涯にとって、思い出が一番濃く、今もあふれ出る。
「女子で初めて」と、生徒会長になったことを、当時の渡水猪作校長先生が喜んで下さり励まして下さった先生の言葉は、後の私の生き方に、大きな指針を与えて頂いたと今も想い続けている。
入学後、中学からの延長線で迷いもなく「文芸部」に入り、3年間、部誌「鵬鯤」(ほうこん)の発行も楽しみであった。顧問の中嶋敏雄先生の事も忘れ難い。私が書く詩作品を見て、かつてご自身が所属していた詩人・北川冬彦氏監修の同人誌『時間』を見せて下さった。
このことが縁で怖いもの知らずに、在学中、東京・信濃町の北川冬彦宅を訪ね、勧められるままに『時間』会員・同人となり、高校卒業後は東京で暮らすと決め込んでしまった。
親の反対を押し切り、「一切の援助はしない」、との厳しい言葉を受け、「何が何でも稼がなくては」、と、就職指導の樽林先生に東京での就職先を相談。当時、世の中は不況で「なべ底景気」と称され、富士精密とか東京ガスとか、何社も降り落とされた。最後の頼りは東京都職員採用試験。受験するも自信なく、在京の叔母を頼り、「虎の門病院の事務職の採用」を得た。直後に東京都の合格通知を受け、迷いつつも樽林先生への義理をも感じ公務員の道を選ぶこととした。心の内は只々北川冬彦の門下に入ることばかりを想い詰めていた。が、都の仕事も職場仲間に恵まれ、渡水先生の昔の励ましを想い起し、係長職時は児童福祉司職一途を選び、定年退職まで全う出来た。
現代詩も29歳時に第一詩集『花の騒ぎ』を刊行。以後、60歳『風を追う一児童福祉司の日々』71歳『迷い道一六十歳の私 七十歳の私』73歳『迷い道一つむぐ歳月』74歳『取扱注意』79歳『喜傘 寿ぐ』と、全六冊の刊行で中島先生への謝恩をも想った。

本間克彦(S35卒業)

https://ikeshinden-ob.net/anniversary/#article_20190802100045

卒業生の声

昭和35年3月、普通科第10回生を卒業してはや60年の歳月が流れた。
あの頃は、生活も楽でなく、勉学のかたわら家の仕事も手伝った。
在学中は国語や音楽の時間が好きだった。丸尾国雄先生の国語の時間に徒然草を学んだ記憶は、先生の個性的な表情と共に懐かしく思い出す。
社会人となって長く寮生活が続いたその間にも、徒然草を読み返し奥の細道や方丈記に親しんだ。
また、10代後半に登山と出合いその深遠なる魅力に強く牽かれ、今日なお多くの仲間達と楽しんでいる。
やがて、家庭をもち小さな事業を起こし夫婦で懸命に頑張って来たものの、社会の大きな変化の荒波の中に沈んで消え、現在に至っている。
他方、音楽の授業はその後、14年間に及ぶ施設への歌のボランティア活動に繋がっていると自負している。
このように振り返ってみると3年間の学び舎は、人としての生きざまや価値観の深浅の帰結に深く結びついていた掛け替えのない尊い時間だったと考えるのである。

丸尾直美 普通科第一期生(1955年度卒)

https://ikeshinden-ob.net/anniversary/#article_20190802095458

卒業生の声

池高普通科第一期生として卒業した私は慶応大学へ進学した。私が進学できたのは、当時の小学校から高校までが我家に隣接していたので時間があったことと、高校時代に読んだ池田潔の『自由と規律』や慶応元塾長の小泉信三の『マルクス死後50年』の影響で慶応大学へ行き、ケンブリッジ大学へ留学したいとの目標を持って勉強したからであろう。早稲田大学の英語英文科へ進学した兄の影響もあった。高校当時、兄の影響で英文の小説を読んだり、アメリカ人と英語で文通をして英作文の力を養ったことも有益だった。池高時代に多くの良き友人を持てたことも励みになった
幸い慶応大学に進学でき、中央大学に准教授として就職し、ケンブリッジ大学にも留学できた。その後、慶応大学教授になることができた。高校当時、「少年よ 大志を抱け」という言葉が流行ったが、人生の目標を立てることと、その目標に向かって努力することに生き甲斐を感じることが良き人生を送る上で大切だとつくづく思う。

鴨 川 朗

https://ikeshinden-ob.net/anniversary/#article_20190628113451

卒業生の声

今振り返ると、「あんなに充実した日々は、たったの3年間だったのか。」と感じています。

卒業して、まもなく半世紀になろうとしていますが、その3年間が昨日のことのように思い出されます。

池新田高校は、私にとってかけがえのない「友」と「経験」を与えてくれました。

在学時には2年先輩が陸上男子1,500mで、当時の全国高校新記録を樹立、また同級生が男子100mで全国大会に出場するなど、池新田高校と言えば「陸上が強い」とイメージされていました。

今年は男子剣道部が県大会で優勝し、全国大会に出場すると大きく報道されました。明るい話題に心が躍っています。

100周年を迎える池新田高校は、在学生、卒業生、そして地域にとって大きな誇りであると同時に、絶対に無くしてはならない高校です。

この記念事業を機に、その機運の盛り上がりを、そして事業の成功を心よりご祈念申し上げます。

赤堀 慎吾 昭和51年度卒

https://ikeshinden-ob.net/anniversary/#article_20190620094400

卒業生の声

赤堀 慎吾(あかほり しんご)昭和51年度卒

午前6時の若者たちへ
「人生時計」。人の一生を1日に例えると、今、私たちは何時を生きているのか。計算方法はいろいろあるが、仮に3年を1時間とすると18歳の高校生は午前6時を生きていることになる。まさに陽が昇り始めるとき。どんな1日になるのだろう。
陽の出ている間は、汗を流してほしい。「若いうちに流さなかった汗は、年老いてから涙になって流れる」と言った人がいた。そんな思いをしてほしくない。
陽が暮れたら、疲労感とともに達成感を味わってほしい。「力を尽くしたという気持ちは何ものにもかえられない。事の成否も大事だけれど、その成否を越えてなお大事なことは、力を尽くすという自らの心のうちにある」と言った人もいた。そんな1日になるといい。
ちなみに私の人生時計は、午後8時を回ったところ。もう少しだけ残業しよう。

菊川市副市長

下村 裕 第19回卒(昭和44年卒)

https://ikeshinden-ob.net/anniversary/#article_20190620094307

卒業生の声

下村裕(ゆたか)第19回卒(昭和44年卒)

そっと目をつむり、過去へ思いを走らせ中学校時代ワープする。
担任先生から高校進学の話があった。今度から池新田高等学校へ行ける希望者は申し出て下さい。
確か、父も叔父さんも池新田だった。
先生に「父が行った学校へ自分も行きます。」先生は非常に喜んでくれて自分も嬉しかった。
池高へ入学したが大学とか就職とか頭の片隅にも無かった・・
時が過ぎ仲間から大学へ、行くどうする少しだけ考えるようになり、設計が好きだからそちら方面にしようかなでも何かしっくりしない。
美術好きだから美術系の学校に、そう考え親に相談した。美術は絶対ダメだ!猛反対され友達に相談。「行くとこ無くなったよー。」
友達は電気大学へ。私の分の願書迄一緒に取り寄せてくれた。
しかし諦めきれず両親に脱得を続けたが結局友達と一緒の学校へ行く事になる。
大学同等の専門学校だった。短期関で学べるからだと、電気関係へ方向転換して大丈夫かな少し不安だ。
入学時140名余りのクラスメートの前で自己紹介をさせられた。
静岡県から来ました。高校は池新田高等学校です。
一人が「池と田んぼで田舎もんだなー」思わず「田んぼじゃ無く新田です」全員に笑われた。
大好きだった池高・そしてクラスの仲間たち、先生や先輩後輩、街の人。福に。猫に・・・
なんか皆バカにされたように感じて悔しかった。
皆良い処知らないから可哀そう。
確かに東京に比べ池新田は田舎だ。
でも自分たちの先人たちは田舎人でも敬養を付け地域を良くしようと学校を作り頑張って繁晴らしい人違を生み出してきた。
それをバトンダッチし繋げて来た。
これからも永遠に繋げ続けて欲しい。未来へ

観光協会 会長

赤堀慎吾 昭和51年度卒

https://ikeshinden-ob.net/anniversary/#article_20190620094123

卒業生の声

赤堀 慎吾(あかほり しんご)昭和51年度卒

午前6時の若者たちへ
「人生時計」。人の一生を1日に例えると、今、私たちは何時を生きているのか。計算方法はいろいろあるが、仮に3年を1時間とすると18歳の高校生は午前6時を生きていることになる。まさに陽が昇り始めるとき。どんな1日になるのだろう。
陽の出ている間は、汗を流してほしい。「若いうちに流さなかった汗は、年老いてから涙になって流れる」と言った人がいた。そんな思いをしてほしくない。
陽が暮れたら、疲労感とともに達成感を味わってほしい。「力を尽くしたという気持ちは何ものにもかえられない。事の成否も大事だけれど、その成否を越えてなお大事なことは、力を尽くすという自らの心のうちにある」と言った人もいた。そんな1日になるといい。
ちなみに私の人生時計は、午後8時を回ったところ。もう少しだけ残業しよう。

菊川市副市長

武田和子 昭和45年卒業生

https://ikeshinden-ob.net/anniversary/#article_20190606133857

卒業生の声

今があることに感謝!

高校入学時は、将来の自分への確かな思いはなく勉学にも余り動しんだ記憶はない。
しかし、ある縁がきっかけで医療の道に進学し専門職としての資格を得て臨床や看護基礎教育の現場で働くことができた。
今思うと高校生活の3年間は、あっという間の3年間でありながら様々なことを考え行動し、友達との強い紳が現在の自分の在り様に繋がっていることを感じている。

今、NPO法人として地域の医療や福祉、健康にかかわる市民活動を行っている。
私は自分を育んでくれたこのまちが大好きである。
誰もが住み慣れた地域で“命”を慈しみ合い安心して暮らし続けていけるための環境、医療体制や医療資源を次世代に繋げるためにこれからも出来る限り行っていきたい。
現役時代とは違った遣り甲斐感とともに自身の健康法でもあると考えている。わが母校“池新田高校”への感謝とますますのご発展を心より祈ります!

NPO法人f.a.n.地域医療を育む会 理事長

河原﨑 全 昭和50年度卒業

https://ikeshinden-ob.net/anniversary/#article_20190516100219

卒業生の声

母校の創立100周年、心からお慶び申し上げます。
私は昭和50年度卒業、40数年前のことになります。薄れつつある記憶に残っているのは、3年次のしぶき祭(クラス展)や合唱コンクール、数え切れないほど走った学校西側の農道、情熱を持った新進気鋭の先生方の存在など……。全国高校総体(陸上競技)に同級生が数多く出場したことは誇れるうれしい出来事でした。
平成2~6年度には職員として在籍しました。現校舎(普通教室棟)建替えの時でした。1学年9クラス。この地域を象徴するような純朴でやさしく人柄のいい生徒たちに恵まれました。就職、進学で実績を上げる一方、部活動では野球部、女子バレーボール部、柔道部、剣道部、吹奏楽部などが盛んでした。サッカー部やバドミントン部が誕生したのも当時です。私は駅伝指導に熱中させていただきました。
池高は一世紀の間、その時代の要請に応じた学校づくりがなされる中で、常に地域に親しまれ、地域とともに歩んできたと思います。地元にとっては当然の存在になっています。しかしながら、在校生や先生方が素晴らしい活動に取り組んでいるにもかかわらず、昨今は社会情勢の変化、個人の意識・価値観の多様化の中で、池高に進むのが当たり前でなくなってきています。池高の現在の使命は何なのか、改めて問い直す時期でしょう。新たな変化が求められています。築かれた歴史と伝統のもとでの、さらなる飛躍を御期待申し上げます。

新井直樹 昭和43年度卒

https://ikeshinden-ob.net/anniversary/#article_20190516094056

卒業生の声

池新田高等学校、創立100周年おめでとうございます。
私は現在、声楽家として年数回のコンサートで演奏しながら後進の指導に情熱を注いでおります。
池高在学三年間で素晴らしい仲間と出会い、何より私をサポートして下さった校長先生はじめ、多くの先生方に感謝を申し上げます。
当時、音楽大学受験は雲をつかむような環境でしたが、私自身も現実を理解できないまま、月1~2度東京へレッスンに通いました。先生のお宅まで片道6時間を要しました。ある日の事、レッスン室から朗々と響く素晴らしいバリトンが聞こえ、プロの方の美声に感動しながらご紹介を受けましたところ、来年私の目指す大学の同じ受験生でした。
私は坊主頭で学生服、かたや立派なスーツを着こなした紳士。残念ながら同じ受験生ですと自己紹介ができない自分がおりました。肩を落とし池新田までの時間がいかに長かった事かと。本当に挑戦している受験がいかに愚かに思えたか。昨日のごとく思い出されます。
でも諦めませんでした。楽しい仲間と先生方の励ましの言葉にホッとし、ひたすら前を向きました。
後に60人合格のうち10人が現役、後は大学生、浪人生、社会人の方々でした。因みに私がショックを受けたバリトンは日大2年生で3度目のトライでした(笑)
私が今なお声楽家として人生を過ごさせて頂く事は、ひとえに池新田高等学校は無事卒業させて頂けました事から始まったのです。どんな事でも夢を見つけ諦めず自分を信じて行きましょう。

声楽家

戸塚功 昭和45年卒業

https://ikeshinden-ob.net/anniversary/#article_20190509094501

卒業生の声

池新田高等学校 100周年おめでとうございます。
私は1970年度の卒業生です。早いもので半世紀を過ぎようとしております。
卒業後、料理人になろうと東京に… 5年後知人の紹介でアメリカに来ました。アメリカに来て最初の三年間は夢を見ているような毎日でした。なんせ学生の時は英語が苦手で(笑)
希望と不安の毎日、人生は勉強だと悟りました。
高校時代の三年間も同じで毎日毎日が不安と希望を持ちながら過ごした事を思い出します。高校時代の終わりには卒業証書を貰う事が出来ますが、社会に出てからは貰えません。給料位かな(笑)
高校時代の三年間にどれだけ夢中になる物を見つけ友達を大事に、勉強も大切ですがそのことのほうがもっと大切のように私は思います。もっともっと世界に羽ばたいて欲しい!!大事な事は1日1日の積み重ねが人を作っていくように思います。ありがとうございました

アメリカ シカゴで焼き肉屋をやって 30年になろうとしています

丸尾 正 第18回(昭和43年3月卒業)

https://ikeshinden-ob.net/anniversary/#article_20190509092856

卒業生の声

私が御前崎市(浜岡町)に住んだのは、池新田高校に通った昭和41年からの3年間だけでした。それでも、私の故郷は浜岡であり、池新田高校がホームグラウンドです。
今年の1月20日(日)、池高卒業50周年記念の学年同窓会が開かれました。集まった同窓生の中には、卒業後初めて顔を合わせる仲間もいました。しかし、30分も一緒にいると、まるで50年の年月を忘れてしまうほど打ち解けていました。これは、タイムマシーンに乗ったような奇跡であり、ちょっとした感動でありました。「同窓会を毎年やろうよ」と興奮気味に言い出す仲間もいました。
高校時代・・・・それは、義務教育を終えて、学校で、地域で、最も密度の濃い時間を共に過ごした3年間でした。ここで出逢った仲間たち、学んだこと、経験したこと、すべてが生涯の財産になっているのです。
私は故郷に高等学校は必須であり、地域と切り離せない社会のインフラ(infrastructure)のひとつであると考えます。かつて、先人たちが力をあわせて創立した学校ですから、この地になくてはなりません。
創立100周年記念事業は、池新田高校を御前崎市にしっかりと残し、未来へ繫げていくことにほかなりません。


菊川文化会館 アエル館長

大石修治 昭和43年3月卒 (普18)

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卒業生の声

池新田高等学校の創立100周年を心よりお祝い申し上げます。
長い年月にわたって、教育と研究に携わっています。信州大学で、副学長や工学部長などを経験しました。続いて、長野県立の南信工科短期大学校の開校を準備し、平成28年4月に開校した同校の校長として現在に至っています。研究分野は、無機材料化学です。
池高への入学は昭和40年4月でした。団塊の世代であり、一学年は7クラスでした。熱心な先生方に、各教科の基礎をお教えいただきました。化学クラブ活動や草スポーツを十分に楽しみました。クラスメートは、いつも前向きでした。池高での3年間は、時間がゆっくりと流れた素晴らしい時代でした。時が経った平成21年5月の池高90周年記念式典では、「池新田高校と結晶成長」を講演させていただきました。
地域に高等教育機関をとの熱い思いから誕生した池高は、有為な人材を輩出し続けています。池高は、これからもますます発展します。「礼譲」、「勤労」、「協同」。


長野県南信工科短期大学校長
信州大学特任教授
信州大学名誉教授

筒井和男 昭和44年度卒

https://ikeshinden-ob.net/anniversary/#article_20190418105502

卒業生の声

私達、当時の池高陸上部30数名余は、部活で始まり部活で終わる毎日といっても過言ではなかったかと振り返ることができます。

顧問の先生の指導の下、朝トレ、昼トレ、放課後の本トレにと汗を流し、時には血尿を出す者もいました。

まさに、部室に掲げられていた“栄光。汗と涙あり。”でしたが『池高陸上部ここにあり』と地域では元より、県下でも知られる存在となりました。特に、駅伝大会では2年連続県第2位で東海大会に出場し、全国大会にあと一歩というところでした。

こうした池高時代の部活での経験は、卒業後にも活かされ、社会での“歯車”としてその責任を遂行し続けられていることを考えるのは、私だけではないでしょう。

このことは、陸上部だけでなく他の部活でも言えますので、どうか後輩の皆様も思い切って汗と涙(悔しい、嬉しい)を流してみて下さい。“頑張れ!池高!”


警視方警察官(平成24年3月退職)

増田博康 昭和44年度卒

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卒業生の声

創立100周年おめでとうございます。

私は中学3年の時、陸上の2000メートルで県で入賞することができ、高校は長距離の強いところでやりたいと思っていました。

当時、池新田高校は静岡県駅伝で3位、4位など何度も入賞する強豪校でした。その陸上部の顧問の増田茂先生から声をかけていただき、受験し、入学することになりました。

しかし、増田先生は生徒主任などで忙しいということもあり、2年から草萱先生に変わりましたが、お二人とも厳しくも情熱あるご指導のおかげで静岡県駅伝では、2年3年と準優勝し、個人でもインターハイに出場することができ、いくつかのが大学から声をかけていただきましたが「君達から陸上部の新しい歴史を作ろう」という言葉に惹かれ東海大学を選びました。

そして3年の時に箱根駅伝に初出場、4年の時往路6位総合9位で初シードをとることができ、そういった事などが認められて、東海大一中(現・翔洋)に保健体育の教員として採用され、5年間サッカー部の顧問もし、その後東海大浦安に転勤し34年間陸上部の顧問(中長距離)も担当できました。

インターハイ、国体選手も育ち、箱根駅伝を走る選手も7人出すことができましたが、こうした今の自分があるのは池新田高校時代に、思い通りにいかない時や辛いことや悔しいことがあっても少々のことではへこたれない頑張る力を陸上を通してつけていただいたおかげだと思います。

池新田高校では、いい先生、いい仲間に恵まれ、選んで良かったなと思っていますし感謝の気持ちでいっぱいです。これからも末永く地域に愛され、ますます発展することを祈っております。

東海大学付属第一中学校(翔洋)→東海大浦安高校・中学校



写真は箱根駅伝 向かって左が筆者

中嶋るり子 昭和44年度卒

https://ikeshinden-ob.net/anniversary/#article_20190418105210

卒業生の声

皆さんは、今、「こうなりたい」とか「将来この職業につきたい」とか漠然とでも何か夢をお持ちですか

私は今までに企業、行政、サッカーワールドカップ、バレーボールワールドカップ、ゴルフワールドトーナメント、等の通訳や国際交流関係の会の司会などをさせていただきました。

講師としては大学や英語教育支援をしています。

また、世界135カ国が加盟しており、アメリカの34代アイゼンハワー大統領が1956年に設立した国際交流団体の国際常任理事を務め、年6回ほどの世界中で開催される会議に出席していました。

今現在も、国際評議員と日本支部会長として世界の友人たちとの交流を楽しみ、ホームステイプログラムで受け入れや送り出しの活動をしています。

私がこのように外国や語学に興味を持ったのは、小学校高学年の頃、TVの番組がきっかけでした。

当時は外国の番組がほとんどでしたが、その中で「兼高かおる世界の旅」と言う番組が大好きで、私は「いつか自分も世界中に友人を持ち、彼女のように世界を飛び回りたい」と思うようになりました。これが今の私の原点です

夢を持ち、その実現を常に思い描くことが大切です。皆様の夢が叶うことを願っています。Good Luck!


通訳、講師、NPO「PTPI」国際評議員、PTPIジャパン本部会長

赤堀猪鶴 高普7回 昭和32年卒

https://ikeshinden-ob.net/anniversary/#article_20190404145025

卒業生の声

赤堀猪鶴 高普7回 昭和32年卒

同級生異国の地に花咲く

赤堀君がブラジルに渡ったのは昭和35年、池高を卒業して2年ほど経った時であった。
正直言ってよく決断したものだと彼の思い切りに驚かされた。
日本を離れる日、私は前日東京に出て在京の同窓生と夕食を共にしながら未知の世界へ不退転の覚悟で挑戦する赤堀君を見送った。
横浜での見送り、移民船ぶらじる丸、我々見送る関係者も乗船が許され、赤堀君家族が数か月の船旅に使う部屋まで公開してくれた。
送る者、送られる者、汽笛が鳴ってぶらじる丸は横浜の埠頭を離れていく。
あたりの景色が一変するほど別れのテープが舞う。まさに歓呼の声、そして、また声。
私は胸の中で彼の成功を祈るのみ。岸壁を離れたぶらじる丸が遠く見えなくなるまで彼の大成を祈りながら見送った
あれから60年余り、赤堀君の話によれば、はじめに入植した所はブラジル、バイヤ州、カラベラス。ずいぶん内陸の地で、ここで野菜作りやココナツヤシを栽培したが思うように成果を上げることができず、次にサンパウロに土地を求めて牧場のかたわらアパート経営に携わったと言う。
当時数か月の船旅でも、今ではサンパウロ~名古屋間直行の飛行機が週2便もあると言う。まさに隔世の感である。60年の歴史は池高同窓生人生の歴史でもある。
(鈴木俊夫記)

鈴木俊夫 高普7回 昭和32年卒

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卒業生の声

鈴木俊夫 高普7回 昭和32年卒

わが青春の歌
高校に入って多くの人と交わり、クラブ活動、校内運動会、友人関係等、まずは先輩後輩がはっきりしている中で、やはり良き先輩の人間味ある思いやりに接したことが心に残る。
その中で部活については以下のようなものがあったと記憶する
第7回間学校農業クラブ弁論大会で、後にブラジルに渡った赤堀猪鶴が1位に、そしてまた、鈴木敏夫は同じく学校農業クラブ関東大会に県代表として出場2位に入賞した。顧問の先生の指導の賜物である
当時のクラブ活動には
〇体育部、バレーボール、バスケットボール、野球、剣道、柔道、陸上(高校駅伝東海大会に出場)
〇文化部、文芸、新聞、美術(絵画がユネスコ展で入選)
〇農業クラブ、そさい、畜産、土肥、測量、醸造(甘酒を作ったつもりがアルコール発酵して大失敗)
記憶に残る学校の風景
広い運動場に面して3階建て木造校舎があり、その西側には剣道部が主に使用する体育館があった。第二体育館とプールができたのもこの頃であった。運動場の向こうには畜舎があり管理人の世話による乳牛、豚、ヤギ、鶏などが飼育されていた。
また、先輩たちが大活躍をしたと言う相撲の土俵もあった。

栗田敏恵 高普27回 昭和52年卒

https://ikeshinden-ob.net/anniversary/#article_20190404114636

卒業生の声

高校時代が今の自分に何を残したか
あの当時はとにかく熱血吹奏楽少女!毎日が部活中心の生活で、それ以外毎日何をしていたのか殆ど記憶に無い。成績が落ちてもお構いなしで、ただひたすら音楽漬け。それでも自分の中では全く悔いもなく、あんなに夢中になれた日々は輝かしい青春の記憶となっている。
現在は市内で小さな喫茶店を営んでいるが、池高の部活の後輩達が来店した事があり、皆生き生きとして楽しそう。時代こそ違うが、音楽への熱い想いは共通するものが有る。部活を通じて様々な人々を知り、団体活動の厳しさ、楽しさなど未来へ繋がっていく大事な基礎を築けたのもこの時期だと思う。
時代は変わり、世の中の価値観がどんどん変化する中でも、音楽の普遍的な価値は変わることなく、これまでの人生でずっと私の支えとなってくれた。今でもあの頃演奏した曲が偶然流れてくると、色々なシーンが鮮やかに甦る。そして気持ちも高校生に戻り、未来にワクワクしていた頃の自分にリセットされる。
高校生の皆さんは、今はその意味が解らなくても、いつの日か、必ずその経験が必然であったと気付く筈だ。
あの時代を池高で過ごせた事を今でも誇りに思っている。

栗田敏恵
飲食店経営(一休処つくし)

丸尾雅史 高普15回 昭和40年3月卒

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卒業生の声

母校は、丸尾謙二先生の「笠南地域に教育の殿堂を」の「建学の精神」を持つ、池新田村議会・池新田財産区の後援等、村民が先生の高邁な理念と確固たる信念に協賛し、郷土に待望の人材育成のための学校を誕生させた。
爾来百年、母校は今、運命の岐路に立たされている。私たち同窓生は、母校のために何をしただろうか。建学の想いを慮れば、同窓会が決然と行動を起こすべき時であろう。
こんな時に遭遇した先生方であるが、本校への熱い思いと責任感で教育に邁進している。
自己評価に見る数字で示そう。校長のリーダーシップ度97%、生徒の授業への意欲的参加度83%、保護者の学校満足度85%に母校の充実ぶりを見ることができる。正に改革期、先生方の意識を高め、戦力化するという校長の強いリーダーシップが発揮されている。
過去が現在にそして未来につながっていることを考えるとき、母校をもり立て、百周年を原点からの「出発点」としなければならない。

矢田知子 高普42回 平成4年卒

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卒業生の声

池新田高等学校創立100周年おめでとうございます。
平成元年に池高に入学し、平成最後の節目の年にメッセージを書かせていただき、たいへん感慨深く思います。
父も叔父も姉達も池高の卒業生で、同じく池高を希望しました。今思い返しても、この三年間は大切な輝いた期間でした。
豊かな環境で、三年間のびのびと学校生活を送れたことが何よりも良かったと思います。
毎年恒例の砂丘マラソンや、スポーツテストなど、厳しい体育のご指導のおかげで体力面に自信がついたことも、生きる底力になっていると感じます。
また、始終のんびりしている私に大学受験へ向け発破をかけ、先生方が学校で補講を開いて下さり、おかげで無事に希望する進路へと進むことができました。
たくさんの御恩を頂いたこと、今でも感謝しております。ここで書ききれないほどの思い出が溢れています。

鈴木與七(すずききひち) 昭和25年卒 高農2期

https://ikeshinden-ob.net/anniversary/#article_20190314132924

卒業生の声

鈴木與七(すずききひち) 昭和25年卒 高農2期

池高時代の私の思い出

池高新聞を創刊したり、小笠郡内五高校の生徒に依って機関紙「萌樹」を出版したりしました。
私は文化祭では雑誌部に籍を置いて居ったが、名ばかりで、当時は3年生部員数人おっただけの休眠部で全然活動の兆しがなく、2年生の私が、当時の顧問の丸尾邦夫先生の許可を得て、解部して再編したが、何分知識も経験もなく、暗中模索で活動を始めました。
編集や校正をやり、自転車で相良町波津(今の牧之原市)の、藤田印刷所に足を運び、色々と印刷や活字拾いを教えて頂きながら、池高新聞の創刊にこぎつけました。
当時一緒にやった植田栄一氏、鈴木秋男氏、大石憲司氏はもうあの世に旅立ちましたが、斉藤(鈴木)秀夫氏は現在御前崎市に在住しています。当時の思い出を残すのが私の勤めと思って筆を取りました。
私の人間形成は、この時出来たと信じて居ります。私は仕事の関係で浜松市に在住して居りますが、当時の経験が役立っています。
浜松市長上地区連合会長、市防災委員等の任につき頑張っています。又、体力作りの為にマスターズ陸上の現役ランナーであり、陸上競技協会役員、審判員も務めさせて頂いて居るのも、池高当時の経験が、七十年過ぎた現在も残っています。
やはり部活動をして良かったと思っています。

藤永芳江 昭和47年度卒業

https://ikeshinden-ob.net/anniversary/#article_20190307133209

卒業生の声

在校生の皆さんへ
私は池高を卒業して47年になります。
高校生活で思い出すのは、体操クラブのことです。
元は一生懸命やり楽しかったのですが、上達しないと2年生でやめてしまいました。友達は、みんな上達しているように思えました。この現実を受け止めることができなかったのです。続けていたら今の私とは違う私になっていたかなと思うことがあります。
勉強もできる方が良い。持久走も早く走れたら良い。なぜそう思ったらコツコツ勉強しなかったのだろう。この教科は好きだと思うものを作れなかったのだろう。練習もしないで良い結果ばかりを求めていたのだろうか。自分に与えられた自由な時間は今よりたくさんあり、体力もあったのにと思います。3年間は、あっという間に過ぎてしまいました。1つ位何か目標を決めて達成すればよかったと思いますが、もう戻れません。
皆さんの高校生活は、後どのぐらいありますか。
あなたの大切な時間を有意義に使ってください。

河原崎恵士 昭和44年度卒

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卒業生の声

私は昭和26年生まれで、池新田高校を昭和45年3月卒業しました。池新田高校と言うよりやはり池高でしょうか。
私は50周年記念の時、在籍していました。2人の叔父と私の兄弟3人、私の子供と3世代にわたって池高の卒業生です。
昭和の時代は坊主頭で学生帽をかぶり、男子は学生服、女子はセーラー服の時代です。
しぶき祭と言う名前は在籍時に名付けたと言う記憶があります。それまではただ文化祭と言うだけでした。あまり正確ではありませんが、校門に高さ5〜6メートルもある孟宗竹を縛り付け、空に向かって登っていくようにイメージして飾り付けようと、顧問の先生と相談した記憶が残っています。しぶき祭の名前が今でも使われていることに感激しています。
よくも悪くも田舎の高校でした
その高校の文化祭の名前がしぶき祭です。
とても斬新でまぶしく聞こえたのを覚えています。ずっと大事に使い続けていただければ幸いです。

御前崎市議会議員

清水園美 平成13年度卒

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卒業生の声

池新田高校100周年おめでとうございます
私の在学中の思い出は、なんといっても「しぶき祭」です。
仲良し5人で歌とダンスを夢中になって練習しました。
文化祭ステージ出演志願のきっかけは、当時憧れていた先輩に自分の存在を知って欲しかったからです。
先輩へ向けた淡い想いも甘酸っぱい歴史となりました(笑)
思いを込めた作詞や音作り、振り付け、衣装選びまで、池高で出会えたメンバーと一緒にまさに青春そのものでした。そのメンバーとは、今でも年に数回会う親友です。
文化祭当日、初めてたくさんの人たちの前でパフォーマンスをした時、凄まじい緊張と共に表現することの喜び、快感、充実感を覚えました。そして、私は役者の道を選びました。
自然に囲まれながらも流行に敏感な池高生達。時に厳しいけれど寛大な先生方。暖かく見守ってくれる地域の人々の環境の中青春時代を過ごせたことを人生の宝物に思います
これからも宝物がいっぱいの宝箱のような高校であり続けて欲しいです

土屋義光 昭和48年3月卒業 高普23

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卒業生の声

あれから40数年・・・・月日の流れは速いものです。

私どもの青春時代の昭和40年代は、日本経済も成長基調にあり、価値観や音楽やファッションといった文化は目まぐるしく変化していき、社会の流れに乗り遅れてしまうのではないかという焦燥感、また、新情報に飢えていた時代でもありました。一方で、「もっと、自由をよこせ」とか、「平和な社会の実現だ」とか、社会に大きな声を上げることが若者の特権のような風潮もどこかにありました。

また、ビートルズに感化された音楽やフォークソングが一世を風靡した時代でもありました。今でも、あの頃の曲を聴くと高校時代にタイムスリップするのは、私だけではないでしょう。

ところで、わが母校は田舎の高校らしくのんびりしたもので、時には朝登校時に生活指導の先生が校門付近で、やれ、帽子をかぶれだの、髪の毛が長いだの、スカートの丈がどうのと風紀指導していた様に覚えています。そんなことに反発をした時代でもありました。

さて、在校生の皆さん、生徒数が私たちの時と比較し半分程度の中で、しぶき祭や前浜でのマラソン大会など伝統を継承するのがむつかしい現在、メディアを通じて報じられる皆さんの頑張っている姿に安堵と感動を覚えます。

最後に、アッという間の3年間でしたが、浜岡バス停車庫の向かいの鰹節と紅ショウガのみの具がない一皿4 0円の焼きそば、うまかったなぁ!!

武井啓司(タケイケイジ)昭和42年度卒業

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卒業生の声

静岡県立池新田高校が創立100周年を迎えられましたことを心からお慶び申し上げます。
100年という長きにわたり学校運営にご尽力くださった全ての方々、多くの先輩諸氏やOBの
皆様に深甚なる敬意を表し、感謝申し上げます。
この度、創立100周年を記念する「100人リレーメッセージ」の一人に選出頂き、来年日本で
開催される東京五輪の聖火ランナーになったような気持ちで筆を執りました。
私は昭和42年度卒業で普通科と農業科合わせて7クラスの約350人の同窓生がいました。
在校中に東海道新幹線が開通し(1964年・昭和39年)、学校や先生方のご配慮により新幹線を
利用し修学旅行に行き、東京オリンピックも見学した思い出があります。また、担任であった
故中嶋敏雄先生が歩く際のスリッパ音も忘れられない思い出です。
そして、「歌は世につれ・・」で、当時は舟木一夫の「高校三年生」や三田明の「女学生」などの
歌謡曲が流行り、それぞれの思いを寄せ口ずさみ勉学やクラブ活動に励んだことも懐かしい。
私の会社も昨年、無事50周年を迎えることが出来ました。支えて下さった、関係して下さった
全ての人々への感謝の気持ちを伝える為、そして企業の使命として企業は永続持続しなくては
ならないことを社内でも説き、次の100年を目指している所であります。
学校が永続するにもミッションが必要と感じます。目標を立て、それに向け行動計画を作り、
その経過検証を追究し,200年を目指してほしい。母校、池高が益々飛躍し、発展することを
心からお祈りいたします。

コロナ工業株式会社 代表取締役社長
株式会社浅草長谷川 代表取締役会長

100人リレーメッセージ -8-片山 智哉

https://ikeshinden-ob.net/anniversary/#article_20190228142427

卒業生の声

片山 智哉 昭和58年度卒

私にとって池新田高校での時間は、悔いの残る3年間でした。振り返ればあの時、学習もスポーツにももっともっとできる事、すべき事があったと感じています。
現在の我が母校は、私の時代に比べ生徒数も減りクラスも少なくなりましたが、サッカー部、吹奏楽部など、我々の時代以上に頑張る後輩の皆様の姿勢を見る度に、今も色々なことを学ばせていただいています。
池新田高校を卒業以来、現在にも繋がる財産はやはり「友人」だと思います。当時、御前崎町、掛川市や菊川町、小笠町、大東町や大須賀町などの同級生と出会い、その縁が35年経った今も繋がり続け、年に何回かの集まりの中で励まし支え合えていることは、大きな財産です。それは池高での3年間がもたらしてくれた、掛け替えのないものです。
これからも、池新田高校が我がまち唯一の高等学校として、新たな進化と共に更なる歴史を重ね、地域を支える人材を育て、同じ時代を生きる人たちの交流の場であり続けることを願っています。

会社経営 代表取締役 広告企画制作

100人リレーメッセージ -7-斉藤 光

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卒業生の声

斉藤 光 高普64 平成26年卒

卒業してから5年くらい経ちますので記憶が曖昧ですが、いろいろと思い起こし、高校生活での出来事でスポーツに関係している印象的な行事は砂丘マラソン大会です。
砂丘マラソンは、男子8、8km、女子は6km走ります。先に女子が走り始めて10分後に男子が走り始めるといった形になります。砂の上を走るというのは凄く大変で、平坦ではなく海からの風に巻き上げられてまってくる砂に足を取られて凄く走りにくい。最初は友達と一緒に走っていましたが、折り返し地点を通過したあたりで疲れ果ててしまい、友達とどんどん距離があいてしまいました。何とか追いつこうと歯を食いしばって一生懸命走り、2mから3m後ろを走って追いつこうとしましたが、友達も抜かれないようにとなかなか追いつけません。でも頑張ってなんとか追いつき一緒にゴールしました。
そして、ゴール後に友達とのハグをしたことが嬉しくて、今でも忘れられません。
何でも一生懸命に頑張ればなんとかなると強い気持ちになりました。
その時の気持ちは今も大変な時に思い出して頑張っています。

100人リレーメッセージ -6-阿形吉明

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卒業生の声

阿形吉明 昭和26年度卒

じゃがいもは根か茎か

国民学校(今の小学校)六年生の夏に敗戦を迎え、やたら怒ってばかりいておっかなかった先生が急にやさしくなった。
先の見えぬ混乱の中、同級生がそれぞれ高等科や旧制の中学校・女学校に進むなかで、本校の前身である池新田農学校を受験した。
入試では、「じゃがいもは根か茎か」という設問があり、
「地中で育つ芋は根に決まっている」と迷わず答えたが、どうも間違いらしい。
何だかペテンに引っかかったようで、釈然としなかった。
翌昭和22年に新しく六・三・三制がスタートし、私たちは県立高校に移管された本校の併設中学校に編入された。
ところが、次に入学してくるはずの下級生は、町の新制中学校に転じてしまい、下に入ってこなくなった。
上級生から虐げられながら、下級生が入ってくるのを心待ちしていた私たちの学年は、そのあおりを受けて、次の年もまたその次の年も、中一・中二・中三・高一と4年間も続けて最下級生の忍苦に耐える羽目になった。
当時の上級生の中には、ヤクザやチンピラのような連中がいて、彼らに目をつけられると理由もなくリンチを受けるのである。そんな地獄の境遇から抜け出すには、自分たちが上級生になるしかなかったのだが、肝心の下級生が入ってこない。
自分を守るためにこすっからさを身につけながら耐えてきた私たち。は、5年目の高校二年生になってはじめて下級生を迎えることができた.
新入生として迎えた女生徒が、殊のほかういういしく眩しかった。

100人リレーメッセージ -5-宮本勝海

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卒業生の声

宮本勝海 高普4回 昭和25年度卒

後々まで役だった部活動

池新田高校時代の思い出の中で、今もって役立っていると思うのは弁論部へ入った事である。弁論部という部活は現在の高校には無いらしいが、当時は何処の高校にもあった。社会問題、学生生活の在り方、文化や歴史などについて考えを述べるので、様々な情報を得たり本で調べるために図書室へ通った。マイクは使わず大きな会場で何百人もの聴衆に聞こえるように話すため、遠くまで響く声が必要だった。響く声を出す訓練として、先輩に連れられて運動場の西側にある松林へ行き、50音(あいうえお)を腹の底から叫んだ。先輩から「新野長手(にいのながて・池新田から新野へ行く県道)を通る人に聞こえるように声を出せ」と言われた。松林から新野長手までは1km程ある。50音を数回大声で叫んでいると、声が嗄れて出なくなる。それでも毎日発声練習を続けていると、不思議な事に遠くまで通る声が出るようになった。
高校卒業後、教師になるために大学の教育学部へ入学した。童話研究部というサークルへ入って、ここでも大勢の前で童話や人形劇で話す訓練をした。高校で培った話し方や発声が大学のサークルでも役立った。
教職についてからも子どもや大勢の教師の前で話す役に就いたが、何とか人々に分かる程度に話すことができた。教師を退職してからも人前で話す機会がある。内容的には満足できないが、人前で話す事は苦にならない。
高校時代の勉強や部活動は何らかの形で身につき易く、後々の暮らしに役立つものだったとつくずく思うがどうだろうか。

元小学校教師
日本自然保護協会自然観察指導員
静岡県環境学習指導員

100人リレーメッセージ -3-戸塚修一

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卒業生の声

戸塚修一(昭和61年度卒)

さかのぼる事 約30年、池高生時代を振り返ってみました。
当時の池高は各学年7クラスあり、とても活気にあふれていました。年に一度の文化祭(しぶき祭)も、とても盛り上がりました。
中でも体育館で行われる歌謡ショーや生徒によるバンド演奏は思い出深い物があります。自分も友達とパンドを組みステージに上がり、会場全体がひとつになって盛り上がった時の快感は忘れられません。
当時のオリジナルメンバーは、ベース担当のヨッチーとギター担当の自分の2人だけにはなりましたが、50才となった今でもバンド活動を続けています。バンド活動と言いましても趣味程度のへたくそなコピーバンドですが、池高生時代の思い出が今日につながっている。我ながらとても素敵な事だと思います。
これから年老いても池高生時代の気持ちを忘れずにバンドを続けて行きたいと思います。


(有)グランデエスタ 代表取締役

100人リレーメッセージ -2-山田利春

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卒業生の声

山田利春 昭和51年卒業(高普27)

伝統行事の砂丘マラソンは、池高の冬の風物詩の一つだ!

今年で54回目の砂丘マラソンが、11月22日に行なわれました。ホームページを見るとPTAの作った豚汁が生徒に振舞われ、疲れを癒している姿が紹介されておりました。
私たちの頃は、豚汁など無く、波で濡れて締まっている波打ち際を走り、途中排水口から流れ出た水で靴が濡れ、重くなった足で遠州の空っ風の寒風吹きすさむ中、ゴールを目指して走った姿が、何十年を経過しても蘇ってきます。砂丘のある池高だからこそできる伝統行事です。
今思うと逆風や追い風の中、目標に向かって走り続け、途中、川や小石の障害物等があり、マラソンはよく人生に例えられますが、還暦を迎えた今、正に人生そのものであると思います。砂丘マラソンで培った精神力で、皆様方の益々のご活躍をお祈り申し上げます。

100人リレーメッセージ -1-田中安治

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卒業生の声

田中安治 第19回 卒業

卒業して早や52年が過ぎ古希を迎えました。
70年の長い人生で高校生活はわずか3年間であります
今思えば一瞬のまばたきのような短い3年間に感じます。
しかし、在学中は毎日楽しい串もなく早く卒葉したいと思う反面将来の事への不安も感じたもので1たが、その中で一卒業生として社会人の基礎を身につけたことに母校に誇りと感謝を抱いております
中でも今も大切な宝物は同級生であります、卒業した翌年から同級会(新年会、バス旅行など)を年実施しており回数も50回を超えており当時の教師もたびたびご臨席いただいております。
振り返ると、職場の事から結婚、教育、子育て、仕事とその時代に抱える色々な話をして来ました。
今年の新年会では健康と介護の話題で盛り上がりましたが、避けて通れない事で参考になることも聞くことも出来まして気持も楽になりました
先に述べました短い3年間ですが素晴らしい友を作ることの大切さも忘れずに励んで下さい。
最後に、これからも池校が地域の要となり発展のシンボルとして羽ばたき続ける事を願っております

池高愛を叫ぼう!池高のいいところ&自慢

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卒業生の声

100年の想いを未来へ繋げるために
「池高愛を叫ぼう!池高のいいところ&自慢」を募集しています。
ご自身が在学していた当時のことや、現在の池新田高校のことなど教えてくださいね

池新田高校同窓会事務局まで
郵送・メール・FAX・持参 どの方法でも大丈夫です。

〒437-1612
御前崎市池新田2907-1(池新田高校「しぶき寮」内)
TEL・FAX 0537-28-7388
メール dosokai@ikeshinden-ob.net

100人リレーメッセージについて

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卒業生の声

100人リレーメッセージについて

100人リレーメッセージとは、池新田高校の同窓生が池新田高校にまつわるメッセージやエピソードを綴るコーナーです。今後、同窓会ホームページに随時公開していきます。おたのしみに!

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