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池高ダンスグループSUNNY デビュー。

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池高ダンスグループSUNNY デビュー。

池高同窓会が支援して練習を重ねてきた「池高ダンスチームSUNNY」が、10月27日(日)御前崎市八千代公園で開催された御前崎市商工会主催の「OMAEZAKI HALLOWEEN PARTY2024」でデビューしました。披露した曲は、K-POPの人気曲NEW JEANSの「OMG」。軽快な音楽に独特の振付で観客を喜ばせてくれました。
このあと、11月9日(土)池新田地区センターで開催された「地区センターまつり」にも出演しました。

第3回くつろぎカフェ in 丸尾記念館 開催!

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第3回くつろぎカフェ in 丸尾記念館 開催!

10月23日(水)15:20から、第3回くつろぎカフェin丸尾記念館が開催されました。
今回は、ゲストに昭和29年池高卒業の自然環境(野生動植物)大好き人間・宮本勝海先生(御前崎市比木)をお迎えしました。1935年生まれの先生は、現在89歳。最初に先生の経歴や「カラス」の和名についてお元気に話してくださいました。
お茶席には茶道部の8名が全員着物姿でお点前を披露。御茶席を華やかに彩りました。今回のお茶席のお菓子は、記念館の藤田館長が厳選して発注してくださった柿のお菓子。季節感と共に美味しく味わうことが出来ました。歓談コーナーのお茶菓子は早々になくなってしまいましたが、約100名の生徒と先生が丸尾記念館に集まり、普段の学校とは違う、生徒・先生・同窓会役員による交流を実現することが出来ました。

池高シーバインズ OMAEZAKI PRO に出店!

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池高シーバインズ OMAEZAKI PRO に出店!

2024年9月7日(土)、池高シーバインズ(地域貢献グループ)は、御前崎市ロングビーチで開催された「whitebuffalo OMAEZAKI PRO QS3000」会場に出店。オリジナル缶バッジづくりやかき氷、飲料販売を行い、大会を盛り上げました。
この企画は、シーバインズが大会主催者や御前崎市の要請を受けて自ら企画・運営をしたものです。
8月6日(月)の池高同窓会役員会議には、シーバインズメンバーが出席してプレゼンを行ない、同窓会が事業経費を補助しました。

新1年生に新聞掲載冊子「栗山さやかさんのモザンビーク便り」を贈る。

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新1年生に新聞掲載冊子「栗山さやかさんのモザンビーク便り」を贈る。

夏休みを前に、ことしも池高同窓会から、池新田高校新1年生全員に、新聞掲載冊子「栗山さやかさんのモザンビーク便り」とお茶ペットボトルを贈りました。この冊子は、2016年に静岡新聞紙上に3カ月間にわたり栗山さやかさんが、毎週1回寄稿した原稿を同窓会で小冊子にまとめたもの。単身モザンビークに渡り、NPO団体「アシャンテママ」を設立するまでの随想をわかりやすい文章で綴られています。
また、100周年記念誌「SHIBUKI」を各クラスに5冊ずつ寄贈。記念誌には多くの同窓生が特集され、メッセージが紹介されています。池高生には、これを読んで、池高の長い歴史や同窓会という大きなネットワークを知って頂きたいと思います。

令和6年度池新田高校同窓会・懇親会

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令和6年度池新田高校同窓会・懇親会

2024年7月6日(土)17:00から令和6年度池新田高校同窓会・総会のあと、御前崎市朝比奈の「割烹・魚徳」で、しばらく休止していましたが6年ぶりに「懇親会」を開催しました。来賓の河原﨑全静岡県議会議員、赤堀慎吾静岡県議会議員、池新田高校・名倉靖之校長にも出席して頂きました。
懇親会は、赤堀吉史顧問(前会長)の乾杯の発声でスタート。約2時間、同窓生のリアルな懇親のひとときを過ごしました。最後に、横山夏日子事務局長の応援団指揮のもと「池高校歌」「池高応援歌」を斉唱してお開きとなりました。
今回の懇親会には、今年池高を卒業して年次委員になった6名のひとり・仲田悠斗君も出席してくれました。

卒業生だより
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アメリカシカゴ・カルビ 35年 戸塚 功 (高普20・昭和45年卒業)

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卒業生だより

アメリカシカゴ・カルビ 35年 戸塚 功 (高普20・昭和45年卒業)

卒業後、料理人になろうと東京へ。その後、5年たった時に知人の紹介でアメリカに来ました。
アメリカに来て最初の3年間は夢を見ているような毎日でした。なんせ学生時代は英語が苦手で希望と不安の毎日。人生は勉強だと悟りました。
アメリカ・シカゴで焼肉屋を始めてすでに35年。当初は、苦労の連続でしたが、シカゴに進出している銀行、商社マンの間で、日本風の焼肉が食べられる店という口コミが拡がって、多くの人たちに来ていただける店になりました。とにかく私は人と人の繋がりを大切にしてきました。
そして今、シカゴ韓国街の『Chicago Kalbi』は、遠征中の日本人メジャー・リーガーや、NBAのバスケットボール選手なども訪れる店になりました。
かつてイチローさんはシカゴに来ると必ず寄ってくれました。ダルビッシュ選手、松井秀喜さん、松坂大輔さん、菊地雄星選手、テニスの錦織圭選手、バスケットの八村塁選手、渡辺雄太選手・・‥今年4月には、ドジャーズの大谷翔平選手、山本由伸選手も来てくれました。
池新田高校同窓生の皆さん!アメリカ・シカゴに来た時には、ぜひとも「シカゴ・カルビ」にお寄りください。
2019年には、同級生で、箱根駅伝に出場し東海大浦安高陸上部監督を務めた増田博康君や元警視庁勤務の筒井和男君が店に来てくれました。「シカゴ・カルビ」で池新田高校時代の話ができるのは本当に嬉しいですね。

戸塚 功 (高普20・昭和45年)
3752 West Lawrence Avenue, Chicago, IL 60625 アメリカ合衆国
(773) 604-8183
携帯080-6512-7180

歌の喜び 新井直樹 高普18(昭和43年3月卒業)

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卒業生だより

歌の喜び 新井直樹 高普18(昭和43年3月卒業)

思えば、小中高と勉強は嫌いでした。いわばコンプレックスの塊でした。幼い頃、父の歌と小学校の担任の平松先生の見よう見まねの「サンタルチーア」は今でもよく覚えてます。音楽の時間だけは好きでした。小6の時から、池新田から菊川の赤堀庄太郎先生(初代アエル館長、鍵盤ハーモニカの父)の元に通いピアノや歌の手ほどきを受けました。
当時は、歌が声楽でオペラという事は想像もしませんでした。喜びどころか地獄の人生のはじまりでした。
中学3年から、東京まで毎月片道6時間、池新田からバスで菊川、電車に乗って静岡、静岡〜小田原、小田原〜成城学園前から徒歩30分!そしてレッスンは40分。新幹線がまだ開通してない頃からでした。
ある時レッスンに行くと、スーツを着た立派な紳士が素晴らしいバリトンで有名なアリアを見事な声で演奏していました。あまりの声量にビックリ、声もでませんでした! すかさず、サインを求めたところ、「君、僕はこれから芸大を受験するんだよ」と。「僕も・・」と、いいかけて口を噤んでしまいました。
それから、奇跡が起こりました。その彼とは芸大の同級生になり、卒業後、一緒にイタリアへ旅立ったのです。およそ20年間のイタリア生活から帰国して得た結論は、些細で難解で不可能な言語の違いでした!息と音が同時の日本語に対し、音で会話するイタリア語との差でした。現在のYouTubeなど発達した映像を観てしても、それは理解できません。残念ながら、現在の最高学府においてもです。
現在の私は、最初のコロナ禍の犠牲者の一人でした。甲状腺検査が三年間できず、その間に甲状腺癌になり、三度の手術で声帯をはじめ呼吸器官全て切除することになり、オペラ歌手人生は終わりました。声帯と命。家族が居なければ私は躊躇なくオペラ歌手を全うしたでしょう。今は話をすることができません。
現在は、片言のシャント発声で分かりやすく生徒に説き、後は本人任せです。本人が気持ち良く、感じ、私が正解かどうか耳で判断し、様々なテクニックを具体的に教えます。難しくて抽象的な教え方はいけません。
そんな私の生徒は増える一方です。例の解決法を学ぶ為に、こんな事が起きるなんて、誰が想像できたでしょうか。僕の生徒に音大出は一人もいません。全くの素人が一年未満でオペラコンサートに出られるようになります。あっという間に素晴らしい立派な声を得るのです。私が身に着けた簡単なテクニックを教えます。命ある限り、誰にでもアドバイスします。私が長い人生をかけて得た究極の発声法をお教えします。歌に興味を持って勉強されたい方、また現在勉強している方がいらしたら、ぜひ私のレッスンを受けてみて下さい。
最後に僕が素晴らしいバリトン歌手とイタリアへ行き、信じられない多くの経験ができた事は、池新田高校に進学出来たお陰だと思っています。楽しい学友、理解を示して接して頂いた先生方、皆さんの温かいご協力無しにはなし得なかった事と心より感謝しています。

〒141-0022
東京都品川区東五反田5-5-18
03(5789)2515
080-6557-0502
ARAI VOICE SOCIETY

2024年はどうなるか 柴田昇次 高普18(昭和43年3月卒業)

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卒業生だより

2024年はどうなるか 柴田昇次 高普18(昭和43年3月卒業)

私は団塊の世代に旧大浜町で生まれたものであり、とにかく、高校は自転車通学が基本であった。我が家は父、叔父、兄も池高一家だったため、特に考えもしないで池高に入学した。
在学中の印象はクラス対抗の合唱コンクールがあったが、我がクラスのリーダーから君は口だけ開いていれば良いと言われた。その甲斐あって2年生、3年生と連続して優勝することができた。それ以外はここで話すようなことは無い。

池高卒業後、会社に45年間勤め退職した。現在の世相について、知らないより、知っている方が、生きていく上で対策が取れる。そんなことで私の考えていることを少しお話させて頂く。

知り合いから、「元気が良いね」、と言われた時、「死ぬまで生きる」からね、と答える。元気が良いと言っても色々あるからね、体力なのか、口先なのか、はたまた呑みっぷりなのかこの世に生まれて来たものはいずれ死が来る。したがって「死ぬまで生きる」は正解である。
2024年、日本のスタートは悲惨な状態であった。本年特に気をつけることは南海トラフ地震だ。津波は東日本大震災の3倍と言われているが、東日本大地震が最大14.8mとすると ×3→ 44.4m となる。たまたまであろうか、不吉、不気味にも4が三つ並んだ。
また、1703年12月16日の富士山の噴火は、宝永地震の発生からわずか49日目のことだった。2024年はその大災害の年から321年目になる。(カウントタ゛ウンの予告か)
奇しくも2024年1月1日、南海トラフ地震の前触れか、その兆候が能登、北陸に大きな被害を伴って現れ、1月28日には東京湾を震源とするM4.8、東京、神奈川で最大震度4を記録した。各地で地震の発生が継続することにでもなれば、2025年は真に危険な年となる。(2025.7 大災害予言 たつき諒「私が見た未来」より) まさにこの2024年は、地震・津波と噴火の対策を講じることこそが最重要課題であると言える。
次にTHE WORLD AHEAD 2024 『エコノミスト誌』の表紙イラスト(図) から2024年の世界はどうなるか読み解いてみたい。これにはすでに専門分野の人達が解説しているので、ここでは、その重要な点を私独自の見解を含めて考察してみた。

まず円中央を見ると投票用紙箱がある。2024年は「選挙イヤー」であり、アメリカ、ロシア、メキシコ、韓国、インドなど実に世界の70カ国のリーダーの選挙がある。70カ国のリーダーが一度に交代したら世界が激変する。その上に砂時計があるが、残りの時間は短くてタイムリミットが迫っている。
砂時計の両サイドにはゼレンスキーとプーチンが向き合っている。ゼレンスキーの上にはポニーテールの女性の影が、またプーチンの上にはトランプらしき影がある。砂時計が示すのは戦争の終結か、それとも拡大か、それがわかる時が迫ってきている。
アメリカの選挙は11月だ、仮にトランプが当選した時は終結するのか、それはまだわからない。メキシコの選挙では女性リーダーの当選が有力視されている。そのメキシコの南側には南アメリカとアジア、オーストラリアの地図がある。その両サイドにバイデンと習近平らしき人物が背中合わせでいる。この地域での資源の奪い合いや、主導権の争いが激しさを増しつつ継続すると言うことか大変憂慮すべきであるが、残念ながらこのイラストは、2024年も世界から紛争が絶えないことを予言して見せている。
さて、どうする日本 もう家康はいない、田沼意次の登場は2025年だ、2024年は同じ相良の植田和男氏に頼むか!
第213通常国会が1月26日に召集された。集中審議後に施政方針となり「裏金国会」は異例の幕開けとなった。
能登半島地震の対応が急務であるが、それも踏まえ南海トラフ地震と津波への十分な対策を急ぐよう国に求めたい。
「台湾有事は日本有事」、日本が巻き込まれることは避けられず、また朝鮮有事の恐れもあり、地域の不安定が懸念される。日本は、平和な世界の実現へ向けて献身的な外交努力を行うとともに、防衛態勢の一定の強化を図ることが必要となる。日本は、海洋資源や、鉄•銅など一部の鉱物資源など特定分野では資源を有するが、エネルギー資源は外国頼みが続く。
石油はいまだ主にはアラブに頼り、その確保も紛争中のイスラエルとパレスチナの行方次第で不安定な様相である。日本はアメリカと同盟を組みつつも、半導体や、ロボット、医療分野等で世界をリードし平和と繁栄に貢献する責務がある。

「生きることの大切さ」、わかっていても考える機会は少ない。息を吸って吐いているだけで、生きていると言えるのだろうか
世界が混沌とし、地震大国日本にも次なる危険が迫っている現在、あらためて「生きることの大切さ」を考えなければいけない。
「日本の常識は世界の非常識」とも言われている。しかしながら、日本の文化は高く評価されているのが実情であり自慢である。コロナが収束し海外から沢山の人が今また来日している。海外の人がもう一度行きたい国ランキング1位は日本であり、リピーターの多くが日本の文化を求めてやって来る。安心安全面で、犯罪率が低く夜道を一人で歩ける国は世界では珍しく、子供が一人で登下校することにはもっと驚いている。反面最近では移民が増えて来た町の治安が悪くなっていると報道されており、移民対応もこれからの重要課題の一つとなる。
2024年、そしてこれ以降も、災害への対応、治安、資源の確保など、安心安全な日本を維持発展させることが最も重要で喫緊のテーマであるとの認識を共有し、日本や世界の仲間と力を合わせて、元気に生きていきたい。

437-1421
掛川市大坂5229
0537-72-2171

復活野球部の記憶 久保 剛司 高普18(昭和43年3月卒業)

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卒業生だより

復活野球部の記憶 久保 剛司 高普18(昭和43年3月卒業)

私は池新田高校の野球部に入部する事が唯一の目的でありました。何故なら近辺中学野球部は、当時、掛川東・西中が県1・2位を占め、地域名門の掛川西高ではベンチに入る事は不可能だったように思えました。近所の先輩が、池新田高校の野球部が硬式に戻るよと連絡を受けた時は、大変な喜びでした。早速入部しましたが、道具が揃わず捕手の防具も1組しかなく危ない練習の毎日でした。部は資金不足で、授業中は使い古されたボールを縫っていました。それでも夏の大会には端田監督のもとに新入生3人がベンチ(当時は定員14人)に入る事が出来、初期目的が達成されました。大会前大先輩の方が、硬式復帰で慣れさせるために草薙球場で練習をさせてくれました。その時今でも鮮明に覚えている事は、スタンド練習をしていた静高の応援団から「池新田高校はどこにあるの」の声。現在でも県内で知らない人が多いでしょうが・・・
1年時、硬式復活の夏は先輩たちの配慮もむなしく惨敗でした。小さな時から捕手をやっていましたので、小・中・高校も何も迷わず捕手を続けました。1年時の秋季大会、浜松西高で薄暮ゲームになり先輩の清水投手(ヤマハ)が当時ではかなりの超速球派でした。私は目も悪かったのでもう球も見えず捕るのが精いっぱいでした。当時はナイター設備もなく大恐怖の思い出でした。大会で負けた時など、1年生皆で、菊川駅から野球道具を各自持ちテクテク歩いて数時間掛け夜遅く帰校しました。2年夏大会の相手校は、前年甲子園出場高でしたが、我校は超速球派投手を擁していたので近隣の高校野球関係者は期待してくれたのですが、また惨敗。後から考えると私のリードミスでした。コントロールとハートが少し弱い投手でしたので、変化球を多めに投げていればと悔やまれます。3年の夏は、多くの先輩方々が硬式野球部に戻してくれたのに、2年惨敗を続け今年もダメでしたら、金の掛からない軟式に戻りそうな雰囲気でした。しかし弱小野球部を何とか我々の時代に押しとどめました。結果は4回戦寸前、延長12回で惜敗。前年とは真逆の超緩球・山口投手の活躍、捕手としては軟投派をリードする事が面白かったです。打は後輩の松井(現在、中泉クラブ監督)等チームワークで硬式野球部を継続する事が出来ました。私は大会前日にバットを折り、ボンドでくっつけて大会中使用しました。今では考えられない危険で貧乏な話です。
そして大学生の頃、横浜球場に何の気なしで都市対抗予選野球を観戦中、選手紹介で2人池新田高名を聞いたときはビックリしました。その後は闘将・戸塚監督の下でメキメキと実力を上げ、野球部の行く末を見守り続けました。遂に1988年下嶋投手(ヤマハ)を擁し、秋には県大会優勝、そして東海4県で東邦高校に惜敗、その東邦が選抜で優勝。ほんの寸前で甲子園に行けなかったのが悔やまれます。
いま野球部は元気がないかもしれないが、またいつか夢のような時代が来るかもしれない。まずは地道に指導者探しが第一歩かと思います。

掛川市中央2-11-1
0537-24-4422
久保剛司建築研究室

考古学と共に生きてきた人生 山田猛 高普18(昭和43年3月卒業)

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卒業生だより

考古学と共に生きてきた人生 山田猛 高普18(昭和43年3月卒業)

私には自己肯定感がほとんどありませんでした。そのために、青春期については苦い思い出ばかりで、万事に投げやりになっていました。“青春の蹉跌”と言えるならカッコイイかもしれませんが、実際にはそんなものではありませんでした。
しかし一方で、好きなことがありました。振り返れば小学生の頃からその傾向はあったのですが、考古学に出会ったのは中学2年の4月でした。図書館で遅くまで読んだ数千年前の東北と関東の違いを論じた土器文化論は、私が書店に注文した最初の本でした。また、高校入学を控えた春休みには、アルバイトをして『日本の考古学』全7巻と『世界考古学体系』1~4巻を買い、耽読しました。なかでも、弥生時代に石包丁が消えた意義を説いた、物を扱うはずの考古学なのにない物から社会動態を考察した論文には感動したものでした。
それでも、受験勉強は不思議なほど身が入りませんでした。大学卒業後は、奈良県の飛鳥で高松塚古墳などの調査に参加しました。その後には縁あって三重県に就職し、発掘三昧の日々を送りながらボツボツと論文も書くようになりました。
30代になって諦めかけていた子供に恵まれ、それまでの投げやりな生活態度を改めて地道に人生に向き合おう、と遅まきながら思い立ちました。すると、物事が好循環へと次第に変わったように思います。
まず37歳で調査を担当した最後の遺跡では、当時として最古の土偶なども発掘し、土器について書いた論文は学会を騒がせました。昨年(2023年)74歳になったのでちょうど半分の37年前からこの課題を抱えたわけですが、新知見なども加えて一冊にまとめて上梓し(『平等と定住の縄文社会』同成社11,000円)、一区切りとしました。また、関連の問題を構想していた段階にはWebで一般向けにも公表しています(「ドングリ考古学」)。
公務では次第に発掘現場から遠ざかり、新規調査体制の構築や県下の文化財保護さらには社会教育にまで関与しました。また、文化庁の研修講師や政策検討会議の一員なども務めました。生来の不器用者が専門職でありながら行政に投げ込まれたために五里霧中でもがいたものですが、得難い経験をしたとも思っています。
定年後は再任用に応じ、自ら志願して発掘現場に戻りました。長年の不健康な暮らしから、炎暑の現場は立ち上がるごとに目眩がしたものですが、事前にスポーツジムへ通いだしていたために何とか無事に乗り切ることができました。身体的には大変でしたが、もう身の丈以上の責任を負うこともなく、ただの考古ボーイに戻れたことが嬉しかったものでした。
こうして定年後になって、現役時代後半に遠ざかった考古学を取り戻しています。さらに、再任用も終わり主要課題も一区切りとした現在は、楽しみながらマイペースで残りの課題に取り組んでいます。振り返ってみると、自分に考古学が無かったらどうなっていただろうと思います。もちろん言うほどのレベルではないのですが、とにかく自分には好きなことがあって良かったと痛感します。好きなことはすべてへの原動力だと再認識しています。

三重県津市安濃町田端上野874-84
080‐3409‐0506