卒業生だより

池新田高等学校はこれまで20,000人余の卒業生を輩出してきました。
地元の御前崎市を始め、全国、世界の至る所で卒業生が活躍されています。
ここでは、卒業生を紹介していきます。

~ 池新田高等学校 ~
卒業生だより

歌の喜び 新井直樹 高普18(昭和43年3月卒業)

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卒業生だより

歌の喜び 新井直樹 高普18(昭和43年3月卒業)

思えば、小中高と勉強は嫌いでした。いわばコンプレックスの塊でした。幼い頃、父の歌と小学校の担任の平松先生の見よう見まねの「サンタルチーア」は今でもよく覚えてます。音楽の時間だけは好きでした。小6の時から、池新田から菊川の赤堀庄太郎先生(初代アエル館長、鍵盤ハーモニカの父)の元に通いピアノや歌の手ほどきを受けました。
当時は、歌が声楽でオペラという事は想像もしませんでした。喜びどころか地獄の人生のはじまりでした。
中学3年から、東京まで毎月片道6時間、池新田からバスで菊川、電車に乗って静岡、静岡〜小田原、小田原〜成城学園前から徒歩30分!そしてレッスンは40分。新幹線がまだ開通してない頃からでした。
ある時レッスンに行くと、スーツを着た立派な紳士が素晴らしいバリトンで有名なアリアを見事な声で演奏していました。あまりの声量にビックリ、声もでませんでした! すかさず、サインを求めたところ、「君、僕はこれから芸大を受験するんだよ」と。「僕も・・」と、いいかけて口を噤んでしまいました。
それから、奇跡が起こりました。その彼とは芸大の同級生になり、卒業後、一緒にイタリアへ旅立ったのです。およそ20年間のイタリア生活から帰国して得た結論は、些細で難解で不可能な言語の違いでした!息と音が同時の日本語に対し、音で会話するイタリア語との差でした。現在のYouTubeなど発達した映像を観てしても、それは理解できません。残念ながら、現在の最高学府においてもです。
現在の私は、最初のコロナ禍の犠牲者の一人でした。甲状腺検査が三年間できず、その間に甲状腺癌になり、三度の手術で声帯をはじめ呼吸器官全て切除することになり、オペラ歌手人生は終わりました。声帯と命。家族が居なければ私は躊躇なくオペラ歌手を全うしたでしょう。今は話をすることができません。
現在は、片言のシャント発声で分かりやすく生徒に説き、後は本人任せです。本人が気持ち良く、感じ、私が正解かどうか耳で判断し、様々なテクニックを具体的に教えます。難しくて抽象的な教え方はいけません。
そんな私の生徒は増える一方です。例の解決法を学ぶ為に、こんな事が起きるなんて、誰が想像できたでしょうか。僕の生徒に音大出は一人もいません。全くの素人が一年未満でオペラコンサートに出られるようになります。あっという間に素晴らしい立派な声を得るのです。私が身に着けた簡単なテクニックを教えます。命ある限り、誰にでもアドバイスします。私が長い人生をかけて得た究極の発声法をお教えします。歌に興味を持って勉強されたい方、また現在勉強している方がいらしたら、ぜひ私のレッスンを受けてみて下さい。
最後に僕が素晴らしいバリトン歌手とイタリアへ行き、信じられない多くの経験ができた事は、池新田高校に進学出来たお陰だと思っています。楽しい学友、理解を示して接して頂いた先生方、皆さんの温かいご協力無しにはなし得なかった事と心より感謝しています。

〒141-0022
東京都品川区東五反田5-5-18
03(5789)2515
080-6557-0502
ARAI VOICE SOCIETY

2024年はどうなるか 柴田昇次 高普18(昭和43年3月卒業)

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卒業生だより

2024年はどうなるか 柴田昇次 高普18(昭和43年3月卒業)

私は団塊の世代に旧大浜町で生まれたものであり、とにかく、高校は自転車通学が基本であった。我が家は父、叔父、兄も池高一家だったため、特に考えもしないで池高に入学した。
在学中の印象はクラス対抗の合唱コンクールがあったが、我がクラスのリーダーから君は口だけ開いていれば良いと言われた。その甲斐あって2年生、3年生と連続して優勝することができた。それ以外はここで話すようなことは無い。

池高卒業後、会社に45年間勤め退職した。現在の世相について、知らないより、知っている方が、生きていく上で対策が取れる。そんなことで私の考えていることを少しお話させて頂く。

知り合いから、「元気が良いね」、と言われた時、「死ぬまで生きる」からね、と答える。元気が良いと言っても色々あるからね、体力なのか、口先なのか、はたまた呑みっぷりなのかこの世に生まれて来たものはいずれ死が来る。したがって「死ぬまで生きる」は正解である。
2024年、日本のスタートは悲惨な状態であった。本年特に気をつけることは南海トラフ地震だ。津波は東日本大震災の3倍と言われているが、東日本大地震が最大14.8mとすると ×3→ 44.4m となる。たまたまであろうか、不吉、不気味にも4が三つ並んだ。
また、1703年12月16日の富士山の噴火は、宝永地震の発生からわずか49日目のことだった。2024年はその大災害の年から321年目になる。(カウントタ゛ウンの予告か)
奇しくも2024年1月1日、南海トラフ地震の前触れか、その兆候が能登、北陸に大きな被害を伴って現れ、1月28日には東京湾を震源とするM4.8、東京、神奈川で最大震度4を記録した。各地で地震の発生が継続することにでもなれば、2025年は真に危険な年となる。(2025.7 大災害予言 たつき諒「私が見た未来」より) まさにこの2024年は、地震・津波と噴火の対策を講じることこそが最重要課題であると言える。
次にTHE WORLD AHEAD 2024 『エコノミスト誌』の表紙イラスト(図) から2024年の世界はどうなるか読み解いてみたい。これにはすでに専門分野の人達が解説しているので、ここでは、その重要な点を私独自の見解を含めて考察してみた。

まず円中央を見ると投票用紙箱がある。2024年は「選挙イヤー」であり、アメリカ、ロシア、メキシコ、韓国、インドなど実に世界の70カ国のリーダーの選挙がある。70カ国のリーダーが一度に交代したら世界が激変する。その上に砂時計があるが、残りの時間は短くてタイムリミットが迫っている。
砂時計の両サイドにはゼレンスキーとプーチンが向き合っている。ゼレンスキーの上にはポニーテールの女性の影が、またプーチンの上にはトランプらしき影がある。砂時計が示すのは戦争の終結か、それとも拡大か、それがわかる時が迫ってきている。
アメリカの選挙は11月だ、仮にトランプが当選した時は終結するのか、それはまだわからない。メキシコの選挙では女性リーダーの当選が有力視されている。そのメキシコの南側には南アメリカとアジア、オーストラリアの地図がある。その両サイドにバイデンと習近平らしき人物が背中合わせでいる。この地域での資源の奪い合いや、主導権の争いが激しさを増しつつ継続すると言うことか大変憂慮すべきであるが、残念ながらこのイラストは、2024年も世界から紛争が絶えないことを予言して見せている。
さて、どうする日本 もう家康はいない、田沼意次の登場は2025年だ、2024年は同じ相良の植田和男氏に頼むか!
第213通常国会が1月26日に召集された。集中審議後に施政方針となり「裏金国会」は異例の幕開けとなった。
能登半島地震の対応が急務であるが、それも踏まえ南海トラフ地震と津波への十分な対策を急ぐよう国に求めたい。
「台湾有事は日本有事」、日本が巻き込まれることは避けられず、また朝鮮有事の恐れもあり、地域の不安定が懸念される。日本は、平和な世界の実現へ向けて献身的な外交努力を行うとともに、防衛態勢の一定の強化を図ることが必要となる。日本は、海洋資源や、鉄•銅など一部の鉱物資源など特定分野では資源を有するが、エネルギー資源は外国頼みが続く。
石油はいまだ主にはアラブに頼り、その確保も紛争中のイスラエルとパレスチナの行方次第で不安定な様相である。日本はアメリカと同盟を組みつつも、半導体や、ロボット、医療分野等で世界をリードし平和と繁栄に貢献する責務がある。

「生きることの大切さ」、わかっていても考える機会は少ない。息を吸って吐いているだけで、生きていると言えるのだろうか
世界が混沌とし、地震大国日本にも次なる危険が迫っている現在、あらためて「生きることの大切さ」を考えなければいけない。
「日本の常識は世界の非常識」とも言われている。しかしながら、日本の文化は高く評価されているのが実情であり自慢である。コロナが収束し海外から沢山の人が今また来日している。海外の人がもう一度行きたい国ランキング1位は日本であり、リピーターの多くが日本の文化を求めてやって来る。安心安全面で、犯罪率が低く夜道を一人で歩ける国は世界では珍しく、子供が一人で登下校することにはもっと驚いている。反面最近では移民が増えて来た町の治安が悪くなっていると報道されており、移民対応もこれからの重要課題の一つとなる。
2024年、そしてこれ以降も、災害への対応、治安、資源の確保など、安心安全な日本を維持発展させることが最も重要で喫緊のテーマであるとの認識を共有し、日本や世界の仲間と力を合わせて、元気に生きていきたい。

437-1421
掛川市大坂5229
0537-72-2171

復活野球部の記憶 久保 剛司 高普18(昭和43年3月卒業)

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復活野球部の記憶 久保 剛司 高普18(昭和43年3月卒業)

私は池新田高校の野球部に入部する事が唯一の目的でありました。何故なら近辺中学野球部は、当時、掛川東・西中が県1・2位を占め、地域名門の掛川西高ではベンチに入る事は不可能だったように思えました。近所の先輩が、池新田高校の野球部が硬式に戻るよと連絡を受けた時は、大変な喜びでした。早速入部しましたが、道具が揃わず捕手の防具も1組しかなく危ない練習の毎日でした。部は資金不足で、授業中は使い古されたボールを縫っていました。それでも夏の大会には端田監督のもとに新入生3人がベンチ(当時は定員14人)に入る事が出来、初期目的が達成されました。大会前大先輩の方が、硬式復帰で慣れさせるために草薙球場で練習をさせてくれました。その時今でも鮮明に覚えている事は、スタンド練習をしていた静高の応援団から「池新田高校はどこにあるの」の声。現在でも県内で知らない人が多いでしょうが・・・
1年時、硬式復活の夏は先輩たちの配慮もむなしく惨敗でした。小さな時から捕手をやっていましたので、小・中・高校も何も迷わず捕手を続けました。1年時の秋季大会、浜松西高で薄暮ゲームになり先輩の清水投手(ヤマハ)が当時ではかなりの超速球派でした。私は目も悪かったのでもう球も見えず捕るのが精いっぱいでした。当時はナイター設備もなく大恐怖の思い出でした。大会で負けた時など、1年生皆で、菊川駅から野球道具を各自持ちテクテク歩いて数時間掛け夜遅く帰校しました。2年夏大会の相手校は、前年甲子園出場高でしたが、我校は超速球派投手を擁していたので近隣の高校野球関係者は期待してくれたのですが、また惨敗。後から考えると私のリードミスでした。コントロールとハートが少し弱い投手でしたので、変化球を多めに投げていればと悔やまれます。3年の夏は、多くの先輩方々が硬式野球部に戻してくれたのに、2年惨敗を続け今年もダメでしたら、金の掛からない軟式に戻りそうな雰囲気でした。しかし弱小野球部を何とか我々の時代に押しとどめました。結果は4回戦寸前、延長12回で惜敗。前年とは真逆の超緩球・山口投手の活躍、捕手としては軟投派をリードする事が面白かったです。打は後輩の松井(現在、中泉クラブ監督)等チームワークで硬式野球部を継続する事が出来ました。私は大会前日にバットを折り、ボンドでくっつけて大会中使用しました。今では考えられない危険で貧乏な話です。
そして大学生の頃、横浜球場に何の気なしで都市対抗予選野球を観戦中、選手紹介で2人池新田高名を聞いたときはビックリしました。その後は闘将・戸塚監督の下でメキメキと実力を上げ、野球部の行く末を見守り続けました。遂に1988年下嶋投手(ヤマハ)を擁し、秋には県大会優勝、そして東海4県で東邦高校に惜敗、その東邦が選抜で優勝。ほんの寸前で甲子園に行けなかったのが悔やまれます。
いま野球部は元気がないかもしれないが、またいつか夢のような時代が来るかもしれない。まずは地道に指導者探しが第一歩かと思います。

掛川市中央2-11-1
0537-24-4422
久保剛司建築研究室

考古学と共に生きてきた人生 山田猛 高普18(昭和43年3月卒業)

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卒業生だより

考古学と共に生きてきた人生 山田猛 高普18(昭和43年3月卒業)

私には自己肯定感がほとんどありませんでした。そのために、青春期については苦い思い出ばかりで、万事に投げやりになっていました。“青春の蹉跌”と言えるならカッコイイかもしれませんが、実際にはそんなものではありませんでした。
しかし一方で、好きなことがありました。振り返れば小学生の頃からその傾向はあったのですが、考古学に出会ったのは中学2年の4月でした。図書館で遅くまで読んだ数千年前の東北と関東の違いを論じた土器文化論は、私が書店に注文した最初の本でした。また、高校入学を控えた春休みには、アルバイトをして『日本の考古学』全7巻と『世界考古学体系』1~4巻を買い、耽読しました。なかでも、弥生時代に石包丁が消えた意義を説いた、物を扱うはずの考古学なのにない物から社会動態を考察した論文には感動したものでした。
それでも、受験勉強は不思議なほど身が入りませんでした。大学卒業後は、奈良県の飛鳥で高松塚古墳などの調査に参加しました。その後には縁あって三重県に就職し、発掘三昧の日々を送りながらボツボツと論文も書くようになりました。
30代になって諦めかけていた子供に恵まれ、それまでの投げやりな生活態度を改めて地道に人生に向き合おう、と遅まきながら思い立ちました。すると、物事が好循環へと次第に変わったように思います。
まず37歳で調査を担当した最後の遺跡では、当時として最古の土偶なども発掘し、土器について書いた論文は学会を騒がせました。昨年(2023年)74歳になったのでちょうど半分の37年前からこの課題を抱えたわけですが、新知見なども加えて一冊にまとめて上梓し(『平等と定住の縄文社会』同成社11,000円)、一区切りとしました。また、関連の問題を構想していた段階にはWebで一般向けにも公表しています(「ドングリ考古学」)。
公務では次第に発掘現場から遠ざかり、新規調査体制の構築や県下の文化財保護さらには社会教育にまで関与しました。また、文化庁の研修講師や政策検討会議の一員なども務めました。生来の不器用者が専門職でありながら行政に投げ込まれたために五里霧中でもがいたものですが、得難い経験をしたとも思っています。
定年後は再任用に応じ、自ら志願して発掘現場に戻りました。長年の不健康な暮らしから、炎暑の現場は立ち上がるごとに目眩がしたものですが、事前にスポーツジムへ通いだしていたために何とか無事に乗り切ることができました。身体的には大変でしたが、もう身の丈以上の責任を負うこともなく、ただの考古ボーイに戻れたことが嬉しかったものでした。
こうして定年後になって、現役時代後半に遠ざかった考古学を取り戻しています。さらに、再任用も終わり主要課題も一区切りとした現在は、楽しみながらマイペースで残りの課題に取り組んでいます。振り返ってみると、自分に考古学が無かったらどうなっていただろうと思います。もちろん言うほどのレベルではないのですが、とにかく自分には好きなことがあって良かったと痛感します。好きなことはすべてへの原動力だと再認識しています。

三重県津市安濃町田端上野874-84
080‐3409‐0506

『モザンビークからの手紙』を自費出版して 昭和51年(1977年)卒業 吉野まゆみ

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『モザンビークからの手紙』を自費出版して 昭和51年(1977年)卒業 吉野まゆみ

アフリカの貧困地区で支援活動を続けている栗山さやかさんという女性のことを知ったのはもう
10年近くも前になるのかもしれない。それから著書を読みブログを読み、帰国した時の講演を聴き、その人間性に惹かれていった。こういう生き方ができるのかという驚きである。「こういう生き方」とはどこまでも自分の良心に忠実な生き方である。厳しい生活をしている人に対し「自分のできること」があるのではないかと感じたら、ごまかさず逃げずにそれを実行に移す。優しくて強くて、柔軟であり頑固で、慎重でありながらとてつもなく大胆だ。私の貧弱な語彙力では到底言いきれない人間としての誠実さと軸のぶれない生き方である。継続して確実な成果も出している。
一方で、さやかさんの著書を読むうち、現地の言葉で話しかける栗山さやかさんの声を向こうの人たちはどういう思いで聞くのだろうか、彼女とはどういう存在なのかについて書いてみたいと思うようになった。それを現地の子目線の子ども向けの短い読み物としてなら書くことができそうな気がした。お話を考えている過程で脚本家の倉本聰さんの「感情移入するには主人公が必要だ」という言葉をどこかで読み、畏れ多くもこの書き方で間違っていないと密かに確信した。
分からないことだらけだった。お話を創ることも、本にすることも、たくさんの人に読んでもらうためにすべきことも。しかし分からないことを書き出し、解決策を考え調べ教えを請い、少しずつ前に進んだ結果、思ってもいなかった世界が待っていた。2023年1月27日自費出版した『モザンビークからの手紙』1,000冊が運送便で到着。内1冊は印刷会社さんから国立国会図書館へ直送されているので正確には999冊。 続けて改訂版1,000冊も完成。その間に「できあがったらみてくださいね」と約束していた大切な人を二人も見送った。一人は村松萬規先生。でも今ではきっと届いていると信じている。
完成と同時に大勢の方に共感され買っていただいた。寄贈への道を作ってくださる方が現れ、御前崎市教育委員会では寄贈式もしてくださり、それが新聞記事になった。新聞記事の効果は大きく、浜松市内のある校長先生から西部地区への寄贈の道も開けた。これまでに静岡県内の県立高校、特別支援学校、県内市町の中央図書館、御前崎市、菊川市、掛川市、牧之原市、静岡市、浜松市、湖西市の小中学校への寄贈が実現した。西部地区には外国籍の児童生徒の割合が多く、四カ国語で書かれている本書は様々な利用価値があり助かると、思ってもみなかった有り難いお言葉もいただいた。磐田市、袋井市の教育委員会へは今寄贈の意思をお伝えしている。
構想から完成まで3年、完成から今日までわずか約7ヶ月、約1,100冊が手元を離れて一人歩きをしている。本当にたくさんの方に出会いお世話になった。「自分史を作るほどの人生じゃなかったから私はさやかさんのことを本にするんだ」と言ったら、小栗和子さんは「それが吉野さんの自分史になるんだよ」と言ってくれた。さやかさんの物語を(さやかさんの)お父さんの絵で残す、後にもっと書ける人が現れて立派なものを創ってくれればそれも良い。私が今できることをしたまでだが、国立国会図書館で永久に保存されると想像すると悠久の思いに浸ってしまう。年を取るってこういうことなのだろう(笑)。
If you like, please buy and read this book. Its 500 yen.Thank you.




御前崎市新野189-1
090-7956-7384

池新田高校美術部が私に与えてくれたもの 安間 由紀子(昭和51年卒業)

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池新田高校美術部が私に与えてくれたもの 安間 由紀子(昭和51年卒業)

小さいころから絵を描くことは大好きでした。賞状も、代表も、賞品も、ほとんど絵でいただきました。そのまま大きくなり、高校に入学する時には、なんの迷いもなく美術部を選びました。
その頃の池新田高校美術部は、先輩たちも本気で絵に向き合っている人が多く、美術大学を目指している人、漫画家や看板屋さんになりたい人など絵を職業に繋げたいと考えて一生懸命頑張っている人の集まりでした。
そんな雰囲気の中で、いつしか私も絵を人生の中で何か役に立たせることができないかと思うようになりました。美術大学に行きたいと家族に話すと、「都会に行ったら石を投げたらイラストレに当たると言われている時代だよ。その中で戦って行くのはすごく大変だから、無理だと思うよ。」と言われました。教員という仕事をしていた父をみて育った私は、ならば図工の先生になりたいと思うようになり、大学は教員の免許取得ができるところを目指すことに決めました。
大学に行くと絵の授業があり、美術団体「新制作協会」の桑原佐吉先生に絵を教えていただくことになりました。私の絵を見て大変気に入ってくださり、自分の絵画教室や展示会のお手伝いを頼まれるようになりました。その頃からコンクールに出品し始めました。ほとんど落選していましたね。
そして、結婚し転勤族の主人について神戸に行くこととなりました。そこで知り合ったのが絵本作家の三浦照子先生です。これが絵本の世界に入っていくきっかけとなりました。三浦先生のもとで絵本製作の基本を学び、先生の勧めでコンクールへの応募や出版社への持ち込みをするようになりました。そして、絵本にっぽん新人賞を受賞し、いろいろな仕事が舞い込むようになりました。
その後、子育てをしながら細々とイラストレーターの仕事や絵本教室を続けていたある日、絵画サークルの友人から絵画の公募展に出さないかと勧められました。出してみると、以外にも毎年のように賞をいただくようになりました。その一つに、画廊で個展を開ける賞があって、これをきっかけに色々なところから声が掛かるようになり、さまざまな展示会で絵を売るようになりました。
その頃から様々なコンクールで賞をいただき、展示会などでもよく絵が売れるようになり、毎年個展やグループ展を開催するようになりました。
そんなある日、高校時代のお友達から是非とも地元で展示会をやって欲しいという声があり展示会場を探していたところ、子供の頃からよく絵を見に行っていたゴルフ場のホテルで展示会をしていただくことになりました。
とても広い会場で、私の絵の歴史を一望できる展示会となりました。私の通った小学校のすぐ横で開催できることを、大変嬉しく思います。ぜひご高覧いただけましたら幸いです。よろしくお願いいたします。
安間由紀子 〒277-0033横浜市青葉区鴨志田町540-31
TEL045-963-5851


「あんまゆきこ展」
○2023年7月1日(土)~7月30日(日)
○静岡カントリークラブ浜岡コース&ホテル 3F「カルチャーフロア」
○入場無料
○休館日月・火曜日、7/17は開館、7/19(水)は特別休館

ひさよしの絵画展~出会いからつながりの輪が!~ 高普25(昭和50年3月卒業) 松井照子

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卒業生だより

ひさよしの絵画展~出会いからつながりの輪が!~ 高普25(昭和50年3月卒業) 松井照子

私は昭和50年第25回卒業生の松井照子(旧姓萩原)です。高校生活は、元気、笑顔、一生懸命を心に頑張り、先生方、仲間と出会った3年間でした。
卒業後、牧之原市(旧相良)相良物産㈱に24年間勤め、仕事にも誇りをもっていました。後半ごろ、結婚して二人の子供を授かりました。
次男(久悦)は、生後45日、風邪が元で大病し生死をさまよいましたが、運良く生を受けました。自分を責めたりしましたが、毎日が何とかしなければと一生懸命でした。当時は、出来ることの一挙手一投足に目を向け褒めて、少しの成長にと繋げてきました。そして、知的障害の道を歩くことになりましたが、知らないお宅にお願いしたり、農作業の方にも頼み、病院に連れて行ってもらったことも・・。歩く中、多くの人に助けてもらいました。
進路は、迷うことなく基礎が大切と袋井養護学校へ進み、手首の硬さを柔軟にする訓練をして筆圧も強くなりました。好きなキャラクターのネコを描きたい思いから初めて描いたのは小学2年の夏。つるつるの広告の裏にするする油性マジックの出会いがきっかけでした。手首の硬さを補ってくれる画材でした。久悦の絵は、学校であったこと、自分が伝えたいことを絵にして親に伝えてくれました。写生ではなく思いのままを描く絵は音や動きまで伝えたいという不思議な絵でした。
平成23年、中2の夏、初めて掛川市大東図書館で個展を開催し、その後、毎年4回個展を開催し、全国公募コンクール等にも参加して、今年で12年目になりました。個展を開催することで障害のある子どもたちの理解を深めて行けたらと活動をしてきました。個展では、多くの方にご覧頂き「元気が出る!」「また頑張ろう!」との声を頂きながら、地域の方々に「お願いします」と発信してきました。
平成25年、高校は地元にと池新田高校内の袋井特別支援学校御前崎分校に入学しました。母と同じ校内で学ぶご縁を感じました。
そして、久悦の絵は、出会うごとに変化していき、絵で心の成長が伝わってきました。
2007年、久悦9歳の時、常葉菊川高校野球部が選抜優勝しました。当時、久悦の行動に悩んでいた私は彼らの最後まで諦めない試合と二塁手町田友潤さんの軽々と捌く捕球から、すごく元気と勇気をもらいました。優勝報告会後には町田さんに出会い写真を撮ってもらい、大きな励みになりました。そして11年後、偶然開いたスポーツ紙に町田さんの記事が大きく掲載されていました。野球から福祉への道を歩んでいる町田さんのきっかけは私たち親子に出会ったことと知りました。久悦は、テレビ放映で、自分の事とわかると、さらに絵は輝きを増し、絵にも大きな変化がありました。11年ぶりに町田さんに再会して、現在も交流が続いています。
また、コロナ禍の現在、出かけることができない日々。久悦の絵に変化がありました。行きたい思いを絵にするようになり、その絵の周りを黒く塗り、また楽しく不思議な絵となりました。久悦の絵には、出会い・繋がり、世の中の状況により変化が現れると感じました。
令和2年、池高100周年記念事業として、御前崎図書館アスパルにおいて「池新田高等学校交流美術展」が開催されました。御前崎分校出身の久悦にもお声がけを頂き、先輩美術家の皆さんと共に作品を展示させて頂いたことは、交流の輪、繋がりを実感でき、たいへん感謝しています。
平成23年、東京ポコラート全国公募では、3年間に4作入選。そして令和4年、6年ぶりの入選に心躍りました。さらに令和4年には、県委託支援事業で全国中学生美術資料本に掲載されました。一流画家の作品と共に久悦の絵が掲載されたのには驚き、手が震えました。この教本資料を見て初めて美術を学ぶ中学1年生の子供たちのことを思うと嬉しさがこみあげてきます。
久悦の絵は、自分の余暇でもあります。自分の気持ちを落ち着ける絵です。「楽しい」「見て~」 と描いています。
私は、平成17年から障害児への理解を頂くために絵本を作成して巡回でお話をしたり、図書館へ寄贈をしてきました。そして平成23年からの絵画の展示へ繋げ、現在に至ります。この活動が令和3年10月静岡県障害者差別解消県民会議から個人として県知事褒章を受けました。
これも近くで私たちの活動を見て、県に伝えて下さった方がいたから受賞できたのです。私たちは、今までに本当に多くの方に支えられ歩んできました。出会った方、支えて下さった方、お一人一人に感謝を伝えたいです。1月30日で久悦は25歳! これからも久悦が歩む道で、どんな心の絵が描けていくのか楽しみです。皆さまもぜひ楽しみにしていて下さい。今まで出会った皆さまとこれから出会う皆さまに力をお借りして一生懸命進んで行きたいと思います。
「ひさよしの絵画展」から、出会い・繋がりの輪が拡がりますように~♡

※写真は、菊川文化会館アエル展示ロビー2023年2月2日(木)~2月26日(日)にて


「ひさよしの絵画展」
松井久悦
掛川特別支援学校御前崎分校平成28年卒業
”絵本みんないっしょ”
松井照子(旧姓萩原)
池新田高校昭和50年卒業
〒437-1521菊川市上平川52
090-3256-0247

岡本透風景画展 高普10(昭和35年3月卒業) 岡本 透

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卒業生だより

岡本透風景画展 高普10(昭和35年3月卒業) 岡本 透

絵を描くことが好きだった私は、昭和32年(1957年)池新田高校に入学して美術部に入りました。そこで出会ったのが、赤堀得平先生(元小学校長)でした。私は、ゴッホが大好きで、「ひまわり」などの作品を模写して、「池高のゴッホ!」を目指しました。

高校2年の時に「第9回静岡県水彩画協会展」に出品した「浜岡砂丘」が入選し、益々、描くことへの想いが強くなりました。

高校卒業後は、専修大学・経済学部に進学して、教員への道を進みました。昭和39年(1964年)に、大学を卒業し、最初の就職先は、社会科の教師として県立三ケ日高校へ。その後は、浜松城南高校(現浜松大平台高校)、森高校(現遠江総合高等学校)、小笠農高(現小笠高校)、磐田西高校へ赴任。1964年から2002年まで、教員をしながら、好きな絵画を独学で描き続けてきました。

教員を退職後は、ひたすら好きな風景画を描き続けています。浜岡海岸、御前崎灯台、富士山、箱根、伊豆、長野県など・・・。

私の絵画は、写生の現場で1日かけて仕上げます。肌で感じた寒暖や光の陰影を感じたままにカンバスに描いていきます。

1986年に、油彩画の巨匠・玉之内満雄(たまのうち・みつお・1929-1997)氏に出会い、約10年間、師事して現在の画風を確立しました。

これまで、数々の賞を頂きましたが、なかでも、1989年「第8回富嶽文化賞展奨励賞」、1999年「静岡県芸術祭美術展芸術祭賞」の受賞には思い出深いものがあります。

松坂屋静岡店画廊、静岡カントリー浜岡コース・カルチャーフロア、秋野不矩美術館、銀座「画廊宮坂」、モンミュゼ沼津、ひと休み処つくし(御前崎市)など毎年5~6回の個展「岡本 透 風景画展」を開いています。

この写真は、2023年1月5日(木)から15日(日)まで藤枝市アートカゲヤマで開いた個展の会場。この後は、2月1日(水)から3月31日(金)まで中部電力原子力館展示室(本館)で御前崎灯台の作品を中心に展覧会を開きます。

私は、いま81歳。写生の現場で好きな絵を描き続けるためには、健康であることが第一条件です。これからも、健康に留意して、出来るだけ長い間、風景画を描き続けたいと思っています。



〒439-0036菊川市中内田694
0537-36-2906

『今』 田端泰成 高普51(平成13年3月卒業)

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卒業生だより

『今』 田端泰成 高普51(平成13年3月卒業)

私は、平成11年(1999年)池新田高校に入学しました。中学の時から独学でダンスをやっていたので、しぶき祭でも踊っていました。

高校卒業後は、社会人として頑張ってきましたが、社会の仕組みになじめず、転職を繰り返す日々を送っていました。いわゆるダメ人間ですね(笑)。

そんなある日、私の中学時代からの親友が病気になったことを知りました。かなり重い病気で手術を繰り返しました。しかし、長い闘病の末に、31歳という若さで亡くなってしまいました。
親友の死は本当にショックでした。親友の死を目の当たりにして、初めて「命は限りあるもの」であることに気づいたのです。「人生は一度きりで有限である」、だからこそ一日一日を無駄にしてはいけないと・・。

それから自分の得意なダンスを活かす仕事を始め、現在は、菊川と掛川の2店舗(Life&makey dance studio)のダンススタジオを経営しています。3歳から60歳代まで、200名以上の生徒にダンスを教え、生徒の発表会などを開催しています。子供たちや生徒にダンスを教え、次第に上達していくのを見るのは楽しい仕事です。

今年は、「ダンス時代劇」という新しい分野に挑戦しました。語り手のナレーションに合わせて、ダンサーがその場面を、照明や音響、映像に包まれながら時代劇を踊るという初めての試みでした。タイトルは、「西郷の局~家康を魅了したお愛さま~」(写真)。徳川家康の側室で二代将軍・秀忠の母親・西郷の局は掛川市の出身です。Life&makey dance studioの副代表が西郷の局(お愛の方)を演じ、私は、何と!徳川家康を演じることになりました。和服でのダンスや殺陣は、全く新しいダンスのスタイルでしたが、菊川文化会館アエルでの2回の公演は、たいへん評判が良く、西郷の局の地元・掛川市では、この企画が盛り上がり、来年は再演しようという動きも出てきました。

私は、親友の死という絶望から学んだ事を大切に、「今」を全力で生きています。「将来」を考えると「不安」になる。「過去」を振り返ると「後悔」する。だからこそ。「今」を大切に、亡くなった親友の分まで全力で楽しく生きています。
私は、現在40歳。これから先、まだまだいろいろな事があるでしょう。人間は、ひとりでは生きていけない。仲間が必要です。私が好きなダンスを通して、仲間たちと新しいビジネスを模索しながら常にチャレンジしていこうと考えています。


〒437-1514菊川市下平川5306
090-5633-3219

趣味を生かして 宮本勝海 高普4(昭和29年3月卒業)

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卒業生だより

趣味を生かして 宮本勝海 高普4(昭和29年3月卒業)

私は池新田高校へ昭和26年に入学しました。集中して授業を受ける事が不得意なので、幼い頃から関心があった生物関係の部活動で楽しみたかったのですが、残念ながら当時の池高には生物部はありませんでした。運動関係の部活はいくつかありましたが、全くのスポーツ音痴でしたので、先輩の誘いに応じて弁論部に入りました。3年間壇上で意見を述べる練習を続け、何とか大勢の人前で話をする事に慣れて、大学での童話研究や退職後度々の講演をするのに役立ったように思います。
池高を昭和29年に卒業し、静岡大学教育学部へ入学しました。教育学部では主免(主専門教科免許)と副免(副専門教科免許)を与えてくれました。私は主免は小学校教員、副免は国語教員の資格を取りました。趣味の野生生物に関係する理科の教師の免許をとりたかったのですが、何となく難しそうだったので諦めました。
小学校では様々な教科について指導する事になっています。教科授業の前の朝の会で、毎日通勤途中で目にした遠くの山々の様子や自分で観察した植物や動物等について毎日話した記憶があります。怪我をして飛べなくなった野鳥を学校へもっていき、児童に飼育してもらったり、縄文時代の学習をしたとき児童の希望で近くの森林で大量のドングリを拾い、ドングリ団子を作って食べた事、学校の近くの小笠山へ児童たちと登って自然観察もしました。このように、私は児童達に教科書にない自然学習を体験を通して学んでもらったように思います。
20歳代に日本野鳥の会に入会し、仲間と共に各地で野鳥の観察調査をしたり、支部会報の編集もしました。また、自然関係の研究書や資料を作成している日本自然保護協会にも入り、数日間の講習とテストを受けて自然観察指導員という資格らしいものを頂きました。静岡県から自然観察指導員(現在は環境学習指導員と改名)という役職を与えられ、地域住民や会社などから自然に関する講演を頼まれるようになりました。県の自然保護課から自然観察資料集作成も依頼され、何冊か作りました。また、県で行う事業に関する検討委員として委員会や現場調査に参加しました。いくつかの地域の学校からも環境学習の授業を依頼され、私自身も楽しみながら指導してきました。
公職ではありませんが、SBS学苑の講師・環境影響評価(環境アセスメント)・某大学の客員講師として自然の調査や指導も行いました。講演や学校の授業の依頼を受けると、資料としてスライドを多数作成しました。また、保存してある観察記録や写真をもとにエッセイ集(単行本)も数冊発行しました。今年も地域に野生生物についてのエッセイ集「身近な生き物を見つめると」を発行し、御前崎市立や隣市の図書館・県立図書館・国立国会図書館等の図書館、市内の保育園、幼稚園・小学校・中学校・池新田高校へも寄贈しました。内容は、この地域に生息している動植物に関する生物を扱っているので、先生方に環境教育の資料にして頂ければ有難いと考えています。文章は小学校高学年児童でも読めるように、出来るだけ分かり易く書きました。
御前崎市教育委員会で本の寄贈式なるものまで行って頂き、放送・新聞社の記者も出席したので、私のエッセイ集発行ついて放送や新聞に掲載れました。そのお陰で購入したいと言う方が増えました。日本自然保護協会でも会誌に、この本の詳しい説明を掲載して下さるので、全国から購入希望が届きます。
あと僅かで人生の終末を迎えるだろうと思っていますが、趣味を生かしながら楽しみ、少しでも人々に役立つ事を続けたいと考えています。

〒437-1602御前崎市比木2816-2
電話 0537-86-2719
jf2fli@sf.tokai.or.jp

語りべ 十八年あまり 水谷(大石)房江 (高普2・昭和27年卒業)

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卒業生だより

語りべ 十八年あまり 水谷(大石)房江 (高普2・昭和27年卒業)

いまから70年前、私は当時作文教育の盛んであった埼玉県の小学校教師になりたくて池新田高校を卒業直後の人生を埼玉県方面に向けて飛び立った。
そして、春日部市の教員となり、六年間六十人の子どもを抱えながら、毎月一度、文部省に通い戦後の児童の「作文教育児童の研究」に携わり、全国発表も行った。
それから40余年、東京に縁あって文京区に住み、夫と共に教育に携わった後、「コンクリートばかりの東京より(私の育った)大坂の地に隠居して、ゆっくり本を読む生活をしたい」という夫の希望もあり、この地に移住することになった。
そこで私は、六十余歳になって地元のお世話になるためには何か役立つことをしたいと考えた。ちょうどその時、「ピーターパン」という読み聞かせグループから誘って頂き、小学校や保育園で毎月1回昔話などを語ったり読み聞かせなどを始めた。
それと並行して大人の方たちにも、この地元に伝わっている伝説や民話を掘り起こして、しっかりと聞き手の心に残るよう語り伝えたいと思い、本格的に「語りべ」の世界を広げてきた。この地は、昔から京の都と江戸との人々の交流の通い道であるため、興味ある伝説がたくさんある。しかし、ほとんどの人は毎日の生活に忙しく、題名は聞いたことはあるが内容は良くわからないと言う。この地に伝わる民話や伝説には、たいへんコクのある話が多い。例えば「小夜の中山夜泣き石」「京丸ぼたん」「高天神城の攻防」など。加えて池新田在住の阿形英世さんがたくさん優れた民話を創作されている。
各話は、どれも語ると1時間ほどかかる。この話を人前で読んだのでは聴き手はほぼ眠ってしまう。そこで私は、これらの話を暗唱して、聴き手の心に添えるよう、なるべく豊かな表現で語るのが、私の「語りべ」である。
語る物語が聴き手の心に残って欲しいと思い、いろいろな話し方を工夫してきた。その一つには、主な登場人物の名前や大事な場所などをカードで示すことにした。聴き手はカードの人名や地名を頭に刻んで話を追っていく。(カードは話によって絵であったり写真であったりする) すると、しっかり話の筋を覚えてくれる。そこで語り方を工夫してなるべく登場人物の心情を大げさでなく、じっくりと語るようにする。
この結果、聴き手は「こんないい話が地元にあっただねぇ」とか「感動する話をじっくり聴かせてもらったやぁ・・」 などと表情を和らげてくれる。
こうして私は、十八年間ほど、この地の小学校、中学校、公民館、シオーネ、お寺などで「語り」を重ねてきたのである。そして、多くの方々から優しい心をいただいてきたことに深く感謝している。
〒437-1421 掛川市大坂5000-26
TEL 0537-72-6222

退職と新たな生活のスタート 大石修治 高普18(昭和43年3月卒業)

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卒業生だより

退職と新たな生活のスタート 大石修治 高普18(昭和43年3月卒業)

半世紀に近い48年もの間,公務員や法人職員として勤めていました。信州大学(長野市)に41年間,長野県庁(長野市)に1年間,長野県立南信工科短期大学校(南箕輪村)に6年間でした。長い年月ですが,アッと言う間であったような気もします。信州大学工学部では,無機工業化学分野の教育と研究を行いました。熱意に富む学生と一緒に研究でき,幸せでした。年齢が高くなってからは,工学部や大学の管理職も兼ねました。長野県庁は,学校でない唯一の勤務先でした。産業労働部に属し,県立工科短期大学校の設立準備という貴重な経験をしました。新設なった南信工科短期大学校は,厚生労働省の所管であり,産業教育の機関です。科学技術と技能が高いレベルで融合した「ものづくりのスペシャリスト」の養成を目指します。
令和4年3月で,常勤職を退職しました。現在は,信州大学名誉教授と同特任教授です。曜日の意識が乏しくなり,自由になる時間が著しく増えました。嬉しいような寂しいような気持ちです。現在も,細々と教育と研究の活動を続けています。在宅でのオンラインによる教育・研究活動や会議が主です。オンライン使用は,新型コロナウイルス感染拡大を防ぐための処置です。たまには,信州大学工学部に通っています。いつの間にか,老いを感じる年齢になっていました。老化の進行をなるべくゆっくりさせるために,自宅のある千曲市稲荷山を中心にした範囲内でウォーキングしています。勤めていたころは勤務先と自宅との往復だけでしたので,地元のことは何も知りませんでした。今,歩いて見る近所の景色がとても新鮮です。千曲川,神社,寺院,りんご畑,ぶどう畑,JR篠ノ井線の電車など・・・新たな発見が毎回あります。
退職までは,職場や自宅に書類,原稿や本などがそれなりにたくさんありました。退職とともに,職場の分が自宅に移動してきました。自宅は物置になってしまいました。そこで,必要なものは保存し,不必要なものは処分しようと決心して整理を始めました。保存するものも処分するものも,密にかかわった当時を思い出させ,ついつい整理の手が止まります。「苦しかったこと」も時間の経過とともに美化されて,「楽しかったこと」の部類に編入されてきます。在職中の本とともに,池新田高校の時代とそれ以降に使った本などがあります。参考書として読んだ「化学の研究」(安藤 暹,旺文社,昭和42年)があります。池新田高校理科教室が発行した「理科研究」(第9号―昭和41年と第10号―昭和42年)があります。「池高五十年」(昭和44年),「創立70周年記念誌しぶき」(平成元年),「創立90周年記念誌しぶき」(平成21年)や「創立100周年記念誌Shibuki」(令和元年)があります。同窓会発行の「会員名簿」には,懐かしい名前が列記され,先生方や友人が思い浮かんできます。ゆったりとした広い校舎・敷地で,ゆっくりと時間が流れました。
常勤職を退き,新しい生活がスタートしました。過ぎ去った過去を振り返りながら,未来をはらんだ現在を過ごしています。なるべく若々しくを心掛けています。
千曲市稲荷山1743-4
080-6938-0421

私は音楽が好き 大石(園田)友子 昭和44年(1970)卒業

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卒業生だより

私は音楽が好き 大石(園田)友子 昭和44年(1970)卒業

中学の音楽教師をめざしたが、小学校勤務となり、結婚後は、実家の隣町へ定住、いま72歳となった。訳あって退職したが、音楽だけは死守し続け、合唱団指導を老後の支えとして日々楽しんでいる。一時は、吹奏楽にのめりこんだが、卒業後は“合唱一途”で継続している。
30代に女性合唱団を設立し「フラウエンコール・菊川」を続けてきたが、いつか混声合唱団が出来ればと願っていた。そして何と今年、混声合唱団として再スタートすることになった。
40年間、合唱を楽しんできたが、この間、「人生苦あり楽あり」・・涙を流したことも数えきれない。それらを乗り越えられたのは、常に目標を立てたからだと思う。記念の年には、大きなコンサートを計画して、その目標に向かって行く。そんな日々は、私にとって生活のリズムとなって一歩ずつ前に進むスタイルで年月を重ねてきた。苦労は多くても、コンサート終了後は、また次の目標が恋しくなってくる。私は不思議な合唱マジックにかけられているのか音楽の神様が私を引っ張ってくれているのか
高齢者となり今も音楽を共有する時間の中に生きていることを、幸せに感じている。私は、過去をあまり気にせず、いつも前を向いていたいと思う。
昨年12月、合唱の最高峰・ベートーヴェン第九交響曲「歓喜の歌」のコンサートが実現した。コロナ禍の中、2回の延期を経て開催した公演には不思議な力が潜んでいた。この公演を契機に、菊川混声合唱団“リベルラ”を結成することになったのだ。
いま、第2回の第九コンサートの開催を夢見ている。高齢は、精神的なダメージも多いが、何もしなくても大切な時間は失われていく。ならば、夢を持ちながら年を重ねたい。人生100年!私も合唱を続けながら輝くシルバーとして、歌い・タクトを振り続け、豊かな人生を歩みたいと思っている。
菊川市吉沢391-7
090-7025-1193

栗山さやか 1998年(平成10年)卒業

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卒業生だより

栗山さやか 1998年(平成10年)卒業

モザンビーク北部の貧困地域で協会アシャンテママを立ち上げ、厳しい暮らしを強いられている子供たちを支援する活動を始めて、今年で早や13年目を迎えています。

現在の活動拠点はマラウィ南部の小村を含め5カ所にまで増え、800名以上の子供たちに教育支援や生活援助を行っています。またモザンビーク北部にある難民キャンプ周辺にて、両親を亡くした難民の子供たちへの食料支援等も新たに始めています。

活動の目標は13年前から変わることなく、貧困や病気で亡くなってしまう子供たちをひとりでも減らすこと、そして読み書きがままならない子供たちに学びの場を提供し、ひとりでも多く政府の学校に進学させることです。

アシャンテママの教室に何年も通ってきた子供たちのなかには、立派に高校まで進学したり、さらに卒業後アシャンテママで先生として仕事をしながら、看護学校等への入学を目指している若者たちもいます。その成長ぶりにはとても大きな喜びを感じます。

しかしその一方で、日本とまったく異なる環境で支援活動を続けることの厳しさも日々実感しており、問題が発生しては解決に向けて奮闘することの繰り返しです。

13年に渡るアシャンテママの活動を池新田高校同窓会の皆様をはじめ、多くの方に応援していただいて今も変わらず活動を続けられていることに心から感謝しています。


栗山さやか
1998年(平成10年)卒業、モザンビークNPO法人アシャンテママ代表

2022年9月

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